2011年12月11日日曜日

エイリアン秋雨嘆声





人類に属していたかどうか
あやしいワタシ
そぼ降る雨の風情は
一国の政府の浮沈より大事に見え
たまにはみつ豆でも食べたいなァと
ふらふら
日暮里あたりで降りたくなる
降りないんだけどね
キレイになっちまった駅舎に
せっつかれるようで
落ちつかねえよ

新聞もテレビも
見なくなったねえ
イヤなに
見るんだが
新聞のことは新聞ガミ自体に
テレビのことは受像機自体に
まかせ切っちゃって
ボーッとしている
考えてみりゃあ
文字も声も映像も
物質として物質の脳を
物質的に刺激するだけのことで
物質主義も極まれりってなもんだろ
精神ってのは物質だったんだゼ
どうりで心の枯れた
連中が大学には溢れていたりする
社会主義者の粗悪な背広や
地味な色柄シャツ好みは
エイリアンには旨そうに
見えないわけよ

人間、文学ヲ識ルガ憂患ノハジマリ
と蘇東坡さん
兎角に人の世は住みにくい
と漱石さん
とうの昔
人を見て人を見ずノ法を
編みだしちゃったワタシとしちゃあ
お二人どちらも
まだお若かったのネ
てなもんだが
まぁワタシの内なる
人間ドモが一番うるさいのは確か
生きるってのは
自分の中のたくさんの他者と
どう渡りをつけてくかってことだが
こいつはなるほど
憂患どころじゃない

秋雨
霜雨
心を寂しめ
無常はなんだかよく透けた
カクテルのよう
エイリアンには好物の
すずしい鈴の
たくさん鳴りわたる荒野のよう

書き添えておこうか
わが友シュタイナー君が言っておったよ
「地球の生命のいとなみは、
夏には眠っています。
夏になると、
地球は本当に睡眠状態に入り、
地球の広大な意識は退きます。
地球の霊は、春とともに眠りに入り、
秋、初霜が降りるとき、
目覚めます…」*

なんと多くの思い込み
思い過ごし
見落としで
まだまだ
われらが地球体験が
捏造されておるか
ということさナ



*ルドルフ・シュタイナー「エーテル体をどう感じとるか」(ベルリン一九一五年四月二〇日講演。高橋巌訳。春秋社版『シュタイナー 死について』所収)



たちあがりの遅いパソコンも…



わたしの未来がしずかに階段をのぼる…
エミリ・ディッキンスン





たちあがりの遅いパソコンも
そのうち
懐かしくなるだろう
霧がかかりはじめている湖のコテージで
ぼくは厚手の
やや黄いろがかったペン書き用紙をひろげる
靄はどのあたりから
霧になるのだろう
手に触れて来ているこれは
まだ靄だろうか

この世にもう読み手のいない
遠い書き物を続けている
ぼくにだけ
届けばいいのだ
たいていのものが
ぼくに届いてこない世界だから
いろいろなことが過ぎ去った後で
恵まれたのは
しずかな心
靄を喜び
曖昧なものを愉しむ
まだ現われぬもの
消えゆくもの
物質らしからぬふるまいを
物質たちがするところ
たとえば
蓮の葉とか
また
それが消えた後の水面の
空の反映
とか

どうやら永遠らしい
時の停止を生きてきた
若葉
それのありかがわかれば
落ち着いてしまう
なにもかも
…いても
いなくても
あるものって
さあ
なんでしょう?

たちあがりの遅いパソコンさえ
持たず
やや黄いろがかったペン書き用紙をひろげる
靄のなか
ぼくにだけ届けばいい
遠い書き物

…懐かしくなるだろう
すべて
靄はどのあたりから
霧になるのだろう
手に触れて来ているこれは
まだ靄だろうか…