2012年2月29日水曜日

倚りかかれず




金にあかして
たくさん詩集を作っていた人たち
どこへ消えたのだろう
毎月の酒と朗読
一五〇万ほどで本を出させて
ぼろ稼ぎしようと集まる
小出版社もあって
あそこの酒場
ここのバー
あの賑わいは
どこへ消えたのだろう

あんな中で
泡沫のように生まれた詩歌
いいものもあり
面白いものもあって
一時代の幻
というには惜しい
集めて伝えれば
日本語の遺産になるのに
見直そうとする人は少ない
小さな円陣を組み
内向きに酒を飲む人たちばかりが
この国の詩人だから
書店には見飽きた
見慣れ過ぎた
わずかな名が並ぶばかり
高度成長期頃の言葉が
いまだ生き生きと
選集に踊るだけ
ネロとか
しじみとか
倚りかからずとか
言った人でも
倚りかかっていたじゃないの
若い頃の
いくつかの秀作の余韻と
グループ寡占と
バブル後の矛盾を回避した表現の
わかりやすさに

自分では書きもしない
バカな学者どもは
事あるごとにマラルメなど言い
やんちゃな御仁はランボーと言い
ボードレールと言っては嘆息し
ブルトンスーポーと言っては
何様のおつもりなんだか
でもロンサールとは言わないのね
マレルブとも言わないのね
マラルメ一辺倒の御仁が
パウンドと言うことはなく
ケルアックと呟くこともなく
堀川正美など聞いたこともないらしく
なんたる読書と趣味の偏向
どこもかしこも
唯我独尊
三つ子の自我は百まで
年とり始める頃に頭だけは
お先に御影石なみの
お硬い墓所

歩行も散策も疾走も
もう
難しい
結跏趺坐も醜い
空気まで民主党の今
ノーパンしゃぶしゃぶ時代に
戻るわけにもいかず
かと言って
古典は爺臭いだけ
そうだ京都へ行こうと古今集
万葉集までJR
平家とくればNHK
いっそ太平記と思っても
きっと民放が汚しにかかるだろう

倚りかからず
ではなく
倚りかかれず
小ぎれいになるだけのニッポンの
ユニクロからイケヤに向かい
よろよろとジョナサン
夢庵にするか藍屋か
イオンで福島産のキャベツを買って
イトーヨーカドーで神戸屋パンを買い足す
どこもかしこも同じ風景の地方駅の
なかでドトールか
スタバか
はたタリーズかと
うるわしい惑い
カプセルホテルのぴかぴか感の中で
生まれていく
老いていく
死んでいく
火葬されて
しっかりと霊位
三十年
ほどしか続かぬ永代供養され
はて
家系のだれが
生き延びるやら
生き延びたところで
だれが供養の金を出すやら

心のブロイラーわれら
うぉううぉう
うぉううぉう
ニッポンの未来は
東京電力
ニッポンの過去は
帝国陸軍
右も左も前後左右も
過去も未来も上下も
どこか足りないニッポン人
ここがヘンだよ
あそこもヘンだよ
そっちも
こっちも
みんなヘンだよ

…戯れ歌は終わりだ!
買い物に出る
月夜の晩
むかしながらの豆腐を買いに

いや、
ダイエーの
充填豆腐にやっぱりしとくか…

2012年2月27日月曜日

来るものが来るまで



Ce jeu insensé d’écrire
(Mallarmé)





深夜テレビがいい映画をノーカットでやっていた頃
ビデオに撮るのが忙しくて
5本セットの生テープを仕事帰りに買って帰ることも多かった
デヴィッド・リンチもケン・ラッセルも
ヘルツォークも
ジェームズ・アイボリーも
そうして深夜に見て
ビデオに撮って
納得がいくまでくり返し見た

あの頃には金曜はいつも
終電間際で帰り
酒が入ったり入らなかったり
コーヒーだったり
ドーナツだったり
ふんだんに話したり議論すべきことがあって
新宿のカプチーノも
トップスも馴染みだった
最後までいつも居座って語りあう客の
ひとりだった

ウォークマンを十何台も聴き潰し
MDウォークマンさえ何台か聴き潰し
CDウォークマンさえ持ち歩いて
クラシック三昧だった
ピノックもムジカ・アンティクア・ケルンもまだ過激で
ガーディナーやアーノンクールも新鮮だった
人生の何処にいて何処に向かうか
わからないながら
バッハのチェンバロ協奏曲に生の煌めきの全てはあると思い
フィリップスのコープマンの演奏が聖書のようだった
一世を風靡した一九八一年録音のグールドの
ゴルトベルクのリアルタイムの感動を引きづり続けながら
グールドが死んでまだ一年にもならない年から
グールドが死んでまだ十年にしかならない頃を
正真正銘のボエームとして生きていた
フォークナーが自称するように
フェールド・ポエット(失敗した詩人)たるべく
詩も短歌も俳句も小説も構造主義批評もすべて読んで
古事記から黙阿弥までは暗記さえすべく黙々とページを繰り
若い取り返しのつかない日々を蕩尽しつつ

胸を張って今は
三文詩人ノ我ナリ、と言える
書くだけは書いた
つまらぬ自我の壁を守って恥かくのを恐れ
古典の確かさの中に籠もって研究者や読書家を気取る安逸連中と違って
無からの創出の暴挙に出た同志、三文詩人諸氏の
捨て身の煌めきと闇を共有しつつ
胸を張って
無と有のはざま
作ること
作り損ねること
残ること
残り損ねること
踏みはずし
無駄足
ふいの空中庭園
三文詩人だからこその
うつせみの世の把握

世間とかいうもの
もし実体があるならだが
総出でこの心身を愚弄するがいい
精髄を盗み味わって
しかし私は去っていく
最良の味を
時間と場所から絞り
人々の魂の
もっとも輝かしいところさえ吸って

一九八三年七月二十二日夜
二十三歳の私は出奔して
永遠に日本のスタンダード人生には戻らなかった
家族、先祖、子孫、地域、友人、上下関係
そんなものをおちょくりまくったその後の生を
知る者共有する者はもう
この世にはいない
たったひとりもいない
時代時代の倫理や感性を
分かち合うかのような演技だけしてきて
心も思考も
いつもお仕着せ
ただの制服
そろそろ脱ごうと思う
カエサルのものはカエサルにということ
言葉には言葉を返し
心には心
魂には魂
灰には灰
無には無
いつまでもお前に仕えていると思うなよ日本語
論理よ
抒情よ
価値よ
古典よ
刷新よ
言語と論理を使う者は所詮地べたに留まる
指でさすことさえが言葉
目を瞑ることさえが言葉

悪いが馬鹿にしている
籠もるところなどもうない
手持ちの言語さえなく
感情思考倫理希望企画未来すべて大量生産の紋切り型だった
過去もどこのコンビニでも売っている
上野でなく上中里だ
神なき里
たとえばたとえばたとえば
線路の錆
無人の渋谷
そうか固有名詞かもしれぬ
普通名詞だけで書く詩人たちがなぜダメになるかブルジョワになるか
新大崎
むしろ京急か
だぁしゃーいあす(ドア閉まります)
そして東上線は白い四角いムーミンのまま
昭和から平成の次へ駆け抜ける
(もう平成は終わるのだ…
(終わるのだ…
(終わっているのだ…

電車ではない
もはや戦後ではないから
小さめのカップで
やはりエスプレッソ
少ないほうがいいぞ
後は処女の経血
処女の、な
おまえさんたちじゃない
乗る
乗る
倫理学
すずしろ
(来てるな
(な、

OK!
振り子時計ではない、とにかく!
村!
そんなに大きくない鉄塔だ!
梟、いるのかな?
この森あの林むこうの山々
いてもいなくても我アリ

兎の絵が跳ねている
ぼくは
お絵かき帖の紙質にこだわり
最初の恋人を逃したかもしれない
隣りのゆり子ちゃん
セダンの
新車のおもちゃを砂場に突っこんだまま
いつのまにか
仙台も新潟も名古屋も
住んだ後
芒の揺れる
秋の日暮れは美しく寂しく
死後の思い出となろう
焼場の罐の中でも夢を見るのかしら
子宮の中でも夢を見たのかしら
親宮という
ものはないの?胎児の腹の
中には?

そして私は生まれる
私はいつも生まれる
生まれ続けるの、私

物に
負けるの?
懐柔?
物そのもの?
+アルファーかな、いつも?

けれども私は生まれる
どんなことがあっても
死んでも
生きても
滅んでも

私は生まれる
時のむこうへ
場のこちらへ
有のあちらへ
無のかなたへ

(イイジャナイカ、
(チッチャナ自我グライ、
(死ヌマデハ
(持ッテオケヨ…

荒野ではない
麦畑の延々と続く中を
走り去っていく美しい自動車を見ていた
いつまでも
いつまでも
エンジン音の聞こえなくなるまで
自動車が運命の
遠い確かな姿となるまで
日暮れか
夜明けか
わからない薄明の
澄明な時間
好きでしょ?
それ
あなたにあげる
だからいっしょに
まだ
生きていこう
まだ
まだ
ずっとこの先も
長い
長い
時間をこの手で作り出しながら
来るものが
来るまで
(正確な言辞ね、ようやく!
来るものが
来るまで


2012年2月26日日曜日

老いゆくヒロシ



部屋の茂みの中、なおも戦慄を目覚めさせねばならぬ。
今日の窓の中、なおも小川たちを結ばねばならぬ。
(アンドレ・ブルトン『溶ける魚』)




年をとったら
心まで
当然年をとるものと
思っていたけど
五十も過ぎ
いつのまにやら
六十も半ば

ヒロシはようやく気がついた
心も
意識も
考えも
年はなかなかとりゃしない
どうやら三十そこそこで
老いばかりでなく
成長も
とまってしまった気がするな

ひとつ覚えのバカじゃなし
思いこんだら命がけと
いうほど一途なわけでもないが
十九で見染めたサヨコさん
いつかはこちらを振り向いて
くれると思って四十年
むこうは子もある
孫もある
夫はめでたく旅立って
そろそろこちらを振り向いて
くれると思って四十年

ところが秋の空のよう
女心はふらふらと
若いツバメに傾いて
なんと三十八才の
インストラクターつかまえて
サンバやタンゴ三昧で
サルサなんぞも加わって
疲れた時にはハワイアン

髪と髪との間が空いた
ヒロシがたまに顔出すと
アロハーなどと手を振って
ご親切にも迎えてくれる
ブルーハワイなど飲みながら
彼氏の腰の振り方の
いかにステキかいいキレか
さんざん聞かされオ・ルヴォワール
おれの感情教育は
切れ味のわるい包丁で
ぐだぐだ切られて
ぱさぱさと
乾いたショートケーキかな

ああ
にもかかわらず
内面の
心も意識も考えも
年はなかなかとりゃしない
どうやら三十そこそこで
老いばかりでなく
成長も
とまってしまって
独り者

額に皺よせ
眼鏡のふちを
キラッとつまんで
一家言
モノ申すのも
せいぜいが
五十幾つのお年まで
六十なかばを出たからは
もう棺桶にどう入る
介護のおばちゃん
おねえちゃんに
どう嫌がられずつき合うか
これこそ火急の課題なり

純愛だとか
魂の合一だとか
かんだとか
ボーッとのぼせた揚句の結語
そろそろ近づく頃合いで
うちに帰れば寂しき部屋に
小さな炊飯器が点り
山のようなる岩波文庫
掃除してない窓枠に
シミだのカビだのまだらに散って
精神一代これはこれで
さっぱりとしたかたちかな
四十、五十なら
新しいパソコン、スマホ
いいじゃな~い
しかし六十半ばになれば
新しい機械持つことが
ただそれだけでうら寂し
なにを見るにも
目はしょぼしょぼ
疲れて猫背になりやすく
足もそろそろもつれ出す

自分の部屋や風呂、トイレ
どこを見るにも最後には
ここで倒れて一巻の
終わりとなるか
はたまた外の
歩道の脇で行き倒れ
それとも
ドクトル・ジバゴのように
駅で心臓発作かと
あれこれ終焉図を思う
こんなアタマを持ったまま
長生きするのもまた悲惨
いったいどこへ
どのように
むかって行けば
老い募る独り者には
しかるべき生とはなるか
ならないか

考えるうち
腹が減り
とにかく
まずは
とりあえず
今日の夕飯食わねばと
思うあの店この店の
名はいつもどおり
オリジンや
吉野家
すき家
大戸屋、ガスト
それともセブンイレブンの
惣菜にでもしようかと
ああ今日はちがう
麺類が食べたいものだ
日高屋が
近くはないがあの角を
曲がれば確かあったよな
むむ、大通りには
ジョナサンもあったな
あそこのハンバーグ
なんとかキャンペーンとかで
このところ安かったかな
バーミヤンの
マーボ定食なんかより
安かったかな
とにかくも
とりあえず今は
あっち側の
あの角曲がり行ってみよう
まずは食わねば
この今のすきっ腹に
なんぞ詰め込まねばならぬ