2012年5月31日木曜日

待つわ [本歌取り]

岡村孝子作詞作曲・萩原光雄編曲・あみん『待つわ』(1982年)の余白に
[岡村孝子作詞『待つわ』の本歌取り]




生きるのがつらかった
わたし待つわ
わたし待つわと
岡村孝子が歌っていたころも
そのころを思い出すいまも

いつかどこかで
いつかどこかで
結ばれるのを願い続けたの
わたしと
わたし自身と

ひとりぼっちのときには
そっと涙を流す
流して流されて
永遠の夢

行ったり来たりすれ違い
わたしとわたしの恋
いつかどこかで
結ばれるまで

わたし待つわ
いつまでも待つわ
たとえわたしが
ふりむいてくれなくても
待つわ
いつまでも待つわ
ほかのわたしに
わたしがふられる日まで





◆このカヴァー、本歌取り、内容的翻案は、雑誌《NOUVEAU FRISSON(ヌーヴォー・フリッソン)》43号(19962月)に載せた。今回、わずかな改変を加えた。

◆徳永英明のような歌手なら、歌詞を変えないで歌うことでカヴァーするだろうが、私は歌詞も内容も換骨奪胎してカヴァーする。日本ではこういう行為を古来本歌取りと呼び、詩歌に関わる者が積極的に行うべき修練・創作行為のひとつだった。歌謡曲については著作権の言い立てが五月蠅いようだが、はたして本歌取りについてはどう出て来るだろうか。根本的に趣旨の異なった、しかし空似の趣のあるテキストはどう扱われうるだろうか。

◆元歌は誰でも耳覚えがあるにちがいない。今は簡単にネットで確認もできる。この本歌取りの重点は、元歌を思い出したり聴き直しながら掴んでいただきたい。たとえストーカーまがいの執着が元歌に表明されていようとも、いつまでも「あなた」を待つのならば、詩歌としてはなんの新味もない通俗浅薄の極みにすぎない。しかし、「わたし」が「わたし」を待つと変えれば、それだけでいきなり内容は深化する。リアリティーも増す。というのも、人はけっきょく、自分自身に対してしか恋などしないからである。



2012年5月30日水曜日

カンヌ [翻訳・翻案]

ジャン・コクトー(1889-1963)

Cannesの翻案・翻訳]




1

思い出のミモザが
きみの帽子の上でお休憩。
小さな鳥、小さな薔薇 
結核に脅かされて。
暮れ方の5時か6時には
地中海は鉛色。
きみが座るには涼しすぎだろうね。


2

ごらん 女神が身震いしている。
モンテ‐クリスト伯なら
(自動車はまだなかった)
メルセデスを4台持ったことだろう。 
彼のための特別製。
ドイツ人の囚人たちが作ったやつ。


3

ぼくの祖母がね、日曜日だったが…
お目覚めだ。ホテルか船で  
ラトー*の音で髪をとかされて。         *(ルーレットのチップ寄せ / 熊手)
白い別荘の象たち、  
あれこれの病気のエゴイズム…
市内電車がメロディーを引きずっていく
ミモザの木々の下を。


4

いいお天気で、大賑わい
今朝、クロワゼットは。 
ぼくの視線は一匹の鱒
かろやかな流れを行く。海は、
渚で、自分の足をなめている。
あそこの母さん、パラソルの下で
エステレル山系*みたいな翳をつくっている。  *(プロヴァンス地方の山系)
青いシャンパンが溢れる
クリスタルのグラスから。
ほらほら、あのきれいな母親は     
子供のかたこと言葉を編んでいる


5

ぼくの耳は貝の殻
海のざわめきがとても好き。


                    6

踏み忘れた韻のいくつか。
戻ってきてはいけなかった。
ぼくは1000歳、あの時5歳。
雌の仔犬のザザもいた。 
エドワード7世もいた
壊された橋の上に。
カモメたちが身軽に
ロープでブランコしている。
ここもやっぱりふるさとなんだ。 




◆映画好きだから、5月といえばいわずと知れたカンヌ国際映画祭を思い浮かべるものの、べつに興味もないし、セレブの集いだの宴だのもどうでもいい。一作に出演するだけでトム・クルーズは42億を稼いだこともあったと聞くが、そういう人びとの集いや、それに群がる様々な業界の人びとの雲集となれば、いよいよ関係ないという他ない。生活保護の不正受給どころでない途方もない格差が歴然としてあり、一般市民とやらはそうした徹底した格差にはひどく不感症で、他人の宴を望見するのを案外楽しんだりする。まったくいつの世も、時代だの社会だのというのは、なにからなにまで、真面目になど考えれば馬鹿を見る饗宴ではある。

◆そういえば、ジャン・コクトーに『カンヌ』という詩があったな、と久しぶりに読んでみると、やはり面白い。どういう口調やアングルで日本語にすればいい詩か、これにはずいぶん悩まされるが、シャンソンと違い、天下のコクトー先生のものだから、なるべく書かれているのに近く意味を並べてみようとしたら上記のようになった。思い違いをして読んでしまっているところなどもあるかもしれないが、とにかくも、今の私はこのように読んでみた。
詩とはしばしば、単語と単語、文と文との分断だが、さすがにコクトーはほうぼうにクレバスを作っている。クレバスを軽々と飛び越えて、詩人の胸に飛び込んでいける者だけが選ばれるのだ。詩とは、もちろん選抜の場なのである。コクトー自身、「詩人が詩を書くのは、自分と同じ言葉を話す人間を見つけるためだ」と言っていた。コクトーのこの詩を読んで、つまらないと思うようなら、詩には無縁と思って、テレビ地上波のゴールデンタイムの荒地にでも去っていただく他ない。こういうものをなによりも面白いというのだよ。このところ声を潜めてばかりの詩人たちは、大声を出して、もう少しこの国を叱ったらいいのだ。

◆5章には見覚えがあるという人も多いだろう。堀口大学が『月下の一群』に決定的な名訳を披露した箇所だ。
   わたしの耳は貝の殻
海の響きを懐かしむ
 やってくれるじゃないの、と思う。忘れがたい大好きな訳だが、しかし、ちょっと言わせてもらえば、『カンヌ』全体の調子とは、やっぱり違うんだな。しかも原詩は、「懐かしむ」ではなくて、あくまで「好き」と言っているに過ぎない。「懐かしむ」と言ってしまっていいのかどうか。やはり悩む。「懐かしむ」のほうが旧派的に詩的だろうが、しかし、旧派になってしまう。コクトーが徹底的に旧派的ではなかったのを思えば、やはりシンプルに「好き」でいこうよ、と思う。
さらにいえば、この2行全体の意味は「ぼくの耳は、海のざわめきが好きな一個の貝殻」ということで、「響き」ではないんだよな。「ざわめき」や「騒音」や「物音」や「ノイズ」などの意味のあるbruitであって、「響き」と言えないことはないものの、やはりキレイに流し過ぎだろう、大学さんは。

◆それにしても、物の名、固有名詞などの適切な散らし方が、シャンパンの泡ほどにピチピチと気持ちいい。詩歌においては、物の名や固有名詞を混ぜて書くのは、普通名詞だけで書くのよりもエネルギーがいるし、知性のコントロールも要る。体力や気力が弱まっている時には、それらの名詞を適切に散らしながら書くことができなくなる。どこかで思いつめ過ぎている時も同様。思いつめると、思考の肩こりが激しくなって、適切な所作ができなくなるのだ。ほぼ普通名詞だけで書いた吉本隆明を対照の極に思い出して、コクトーとの比較論をやると面白いかな。




[原詩]
Cannes                                  
Jean Cocteau


1

Le mimosa du souvenir        
Sur ton chapeau se reposa,  
Petit oiseau, petite rose,
Menacés de tuberculose.  
A 5 ou 6 heures du soir
La Méditerranée en zinc ;
Il fera trop frais pour t’asseoir.


2

Vois se secouer la déesse.
Le comte de Monte-Cristo
(Mais il n’existait pas d’autos)
Aurait eu quatre Mercédès,
Faites pour lui spécialement,
Par des prisonniers allemands.


3

Ma grand’mère, c’était dimanche...
Le réveil : hôtel ou bateau,
Peigné par le bruit du râteau ; 
Les éléphants de villas blanches,
L’égoïsme des maladies...
Le tram traînait ses mélodies
Sous les arbres de mimosa.


4

Il fait beau, il y a foule
Ce matin sur la Croisette,
Mon regard est une truite
Des eaux légères. La mer,
Au bord, se lèche les pattes.
La maman, sous son ombrelle,
Fait l’ombre sur l’Estérel ; 
Le champagne bleu déborde
De la coupe de cristal.
Voyez donc, la jolie mère
Tricote les babillages.


5

Mon oreille est un coquillage 
Qui aime le bruit de la mer.  


               6

rimes oubliées :
Il ne fallait pas revenir ;
J’ai mille ans et j‘en avais cinq.
La petite chienne Zaza. 
On voyait le roi EdouardⅤⅡ 
Sur la passerelle détruite. 
Les mouettes délicates 
Se balancent à la corde ;
Encore un pays natal. 


2012年5月29日火曜日

ゲッティンゲン [翻訳・翻案]

バルバラ(19301997
[Göttingen (1964)翻訳・翻案]




セーヌ川じゃなかった
ヴァンセンヌの森でもなかった
でも綺麗だったわ
ずいぶん
ゲッティンゲン
忘れられない

すてきな河岸もないし
はやり歌だってない
嘆きぶしも
引きずるような
歌いかたもなかったけれど
愛は花開いていた
ゲッティンゲン

フランス王たちの歴史
だれも腹立てたりせずに
フランス人よりも知ってた
ヘルマン
ピーターにヘルガ
ハンスらの
ゲッティンゲン

フランスの昔ばなし
むかしむかし…
とはじまる
好まれ
よく語られていた
ゲッティンゲン

わたしたちには
もちろん
セーヌ川や
ヴァンセンヌの森
でも神さま 美しかったわ
ゲッティンゲンの
薔薇たち

わたしたちには
フランスの青白い朝
ヴェルレーヌの
灰色のこころ
かれらには
ほんものの憂愁
ゲッティンゲンでは
ゲッティンゲンでは

どう言っていいか
わからないとき
ただ微笑んで
立っていたかれら
でもよく理解できた
ゲッティンゲンの
金髪の子たち

驚く人もいるでしょうね
こんなふうに言えば
大目に見てくれる人も
きっといると思う
だって
子どもは子ども
パリだって
ゲッティンゲンだって

おゝ 二度と来させないでください
血と憎しみの時代
だって
いたのですもの
わたしの
愛する人たち
ゲッティンゲンには
ゲッティンゲンには

空襲警報がふたたび
鳴るだろうとき
武器がまた手にされるとき
泣きくずれる
こころ
ゲッティンゲンのため
ゲッティンゲンのため



◆バルバラのこのシャンソンの翻案は、すでにネット上の『リタ』に出してあるが、ここにも採録しておきたい。
◆歌を聴いたり歌詞を読んでみると、第二次大戦で被害を受けたドイツの都市への哀惜に思えるが、戦中も敗戦時も、古い大学と多くの傷病兵を抱えていたゲッティンゲンの被害は、他の都市に比べれば比較的少なかったはず。最終連は戦争中の空襲を思わせるが、むしろ徹底的な破壊が行われたドレスデン大空襲にこそ相応しい連にも思える。
 少女期、バルバラはゲッティンゲンにいたことがあるのだろうか。謎の多い彼女の生涯をそこまで辿ったことがないのでわからないが、バルバラが1968年に作ったこの歌は、ナチスを生んだドイツに対する戦後フランスからの友情という意味合いを持つものかもしれない。あたかも五月革命の年でもある。

◆このシャンソンを翻案し、自分なりの言葉でカヴァーしたのは、イスラエルによるガザでのパレスチナ人大量虐殺が起こった頃で、詩歌による小さな糾弾と追悼の意味あいがあった。ユダヤ人であるバルバラの歌を、ユダヤ人による虐殺の被害者たちへ。そんな意図があった。
この歌を歌うバルバラ自身の映像へのリンクを付しておきたい。

◆時と場所は違うが、今もシリアで市民への虐殺が続いており、ハウラHoulaでの爆撃では100人以上が犠牲になったという報が届いたばかりだ。ロンドンで生まれ育った大統領夫人アスマに、各国の国連大使夫人たちが「あなたの夫を止めて!」とメッセージを送り続けているのは有名な話だが、ファッションリーダーふうのアスマがなにかアクションを起こしたとは、まだ聞かない。Youtubeには、2009年のガザ虐殺に言及したアスマのヒューマニスティックなインタヴューもあり、現在のシリア情勢との皮肉な重なりが見られる。将来、一編の小説や映画になりそうなドラマが、アサド大統領夫人アスマの身辺に、心に、いま、リアルタイムで起こり続けている。



[原詩]
Göttingen
Barbara


Bien sûr, ce n’est pas la Seine,
Ce n’est pas le bois de Vincennes,
Mais c’est bien joli, tout de même,
A Göttingen, à Göttingen, 

Pas de quai et pas de rengaines,
Qui se lamentent et qui se trainent,
Mais l’amour y fleurit quand même,
A Göttingen, à Göttingen,
 
Ils savent mieux que nous, je pense,
L’histoire de nos rois de France,
Hermann, Peter, Helga et Hans,
A Göttingen, 

Et que personne ne s’offense,
Mais les contes de notre enfance,
« Ils était une fois», commnencent,
A Göttingen, 

Bien sûr, nous, nous avons la Seine,
Et puis notre bois de Vincennes,
Mais, Dieu, que les roses sont belles,
A Göttingen, à Göttingen,

Nous,nous avons nos matins blêmes,
Et l`âme grise de Verlaine,
Eux, c’est la mélancolie même,
A Göttingen, à Göttingen,

Quand ils ne savent rien nous dire,
Ils restent là, à nous sourire,
Mais nous les comprenons quand même,
Les enfants blonds de Göttingen, 

Et tant pis pour ceux qui s’étonnent,
Et que les autres me pardonnent,
Mais les enfants, ce sont les mêmes,
A Paris ou à Göttingen,

O, faites que jamais ne revienne,
Le temps du sang et de la haine,
Car il y a des gens que j’aime,
A Göttingen, à Göttingen,

Et lorsque sonnerait l’alarme,
S’il fallait reprendre les armes,
Mon coeur verserait une larme,
Pour Göttingen, pour Göttingen.... 



2012年5月28日月曜日

お元気ですかァ




ものを読むことのむずかしさ…

それを言いつづけ
むずかしい詩を
諄々と解説し
いやいや
それでもやっぱり
わかりませんなあと
毎回講義を終える先生がいた

和、香、莉、麻、泉、菜、亜、

ノートに
こう落書きしてみた時
これも
ひとつの花
支流に咲いた
そう気づき

ひとりで
卒業を決めた

むずかしい詩から。
ものを読むことから。

そうして
二度と
戻っていない

(………
(お元気ですかァ
(和、香、莉、麻、泉、菜、亜の
(先生…


2012年5月27日日曜日

お守り


りっぱな神社のお守りをもらったが
なるほど
きれいな袋入りだし
由緒正しい
たいそうりっぱな歴史もあるし
安いカバンにつけて歩くのもなんだしで
きれいな布に包んで
さらにきれいな袋に入れて
ガラスケースに入れてあるんだが

なんだかこちらが
お守りを
お守りしてるようで
ござんすな

2012年5月26日土曜日

薄情な時間め


時間が経つ、っていうけれど
かわいそうに
時計の針はどこにも発てず
おんなじところを廻ってるだけ
杭につながれた犬みたいに

薄情な時間め
すこしは
面倒みてやれ
世界じゅうの針をつれて
散歩にでも
出てやれ

2012年5月25日金曜日

そう思ったから


死んでいく時は
笑いながら逝くほうがいいだろう?
さびしげに逝ったり
気むずかしそうに逝ったりするのより?

そう思ったから
お笑いネタを連発したり
必死にくすぐったら
かあちゃん
はやく死んじゃった…

誰にも言わないでおきますがね、って
医師は言ったが
あいつ
けっこう信用ならねえぞ


2012年5月24日木曜日

見ちゃうんだな


散歩している犬の
大きなふぐり

それを見続けた目で
飼い主のうら若き娘を

見ちゃうんだな
これが


2012年5月23日水曜日

すっかり老い果てた頃になって、夕ぐれ、あかりも灯し… [翻訳・翻案]

ピエール・ド・ロンサール1524-1585

[Quand vous serez bien vieille, au soir, à la chandelleの翻訳・翻案]           


すっかり老い果てた頃になって、夕ぐれ、あかりも灯し
炉辺にすわり、糸を繰ったり紡いだりしながら
わたしの詩を口ずさみ、心を高ぶらせてあなたは言うでしょう、
美しかった頃のわたしを讃えたのはロンサール、と。

そのとき、これを聞いた侍女たちはみな、
仕事に疲れて半ばまどろんでいたにしても、
わたしの名のひびきに目を覚まして
永遠の誉れを受けたあなたの名を祝福するでしょう。

わたしはもう土の下にいて、骨さえ失せて亡霊になっている。
ミルトゥスの木陰あたりで安らっていることでしょう。
あなたはといえば老婆になって、炉辺にうずくまり、

わたしの愛を懐かしみ、きっと、あなたの傲慢な仕打ちを悔んでいる…
生きなさい、わたしを信じるのなら、明日など頼まずに。
いのちの薔薇を、今日からすぐに摘むのです。




5月、わが家のヴェランダには、マリー・ルイーズ・メイアンの創ったロゼッタ咲きの蔓薔薇ピエール・ド・ロンサールが咲き誇る。今年は花数もとりわけ多く、たっぷりと花弁は重なり、触れれば、若いふくよかな乳房の肌さながらにしっとりと涼しく手のひらに吸いついてくる。こういう薔薇に囲まれ、触れ、これらに時を注ぐ日々は、他のなにものにもかえがたい独自の至福の日々となる。
詩人ロンサールの作品に少しでも触れたことのある者なら、この薔薇に、よくもロンサールと名付けたものと思わされもする。

◆この薔薇の名の源となった詩人、ピエール・ド・ロンサールはといえば、知らぬ者とてない詩の王。「詩人たちの君主」、le prince des poètes。詩の愛好者なら古今東西の誰もが敬礼し、讃嘆措く能わず、苦労してでもルネサンス期のフランス語を調べながら、なんとしてでも生きているうちに原詩を読んでおきたいと切望する至高の詩編群の作者である。

◆難聴から外交生活を放棄し、友デュ・ベレーらとギリシア・ラテン文学研究に沈潜した彼は、デュ・ベレーの新文学宣言『フランス語の擁護と顕揚』(1549)に続き、『オードOdes』(1550-1552)『恋愛詩集Les Amours』(1552)を出版した。単なる個人的な詩業にとどまらず、世界詩上の決定的傑作の出現となった奇跡の年々である。後のサヴォア公妃マルグリットによる賞賛でバイロンばりの急な名声を獲得し、フランソワ2世妃メアリー・スチュアートによる全集の懇願、シャルル9世による庇護、エリザベス1世からの賜物と続いていく燦爛たる詩的栄光をみれば、他の詩人を引き合いに出してロンサールと比べてみようという愚かな思いなど潰える。晩年はことのほか病が篤かったとはいうが、傑作につぐ傑作をあれだけ現世の言語に残した詩人にとって、病の苦しみなど何ほどのことであったろう。人類の詩的頂点を生きた肉体と精神は、病など、当然の引き換えとして軽々と受容していたに違いない。

◆古典を前にすると、やれ批評だのやれ研究だのと姦しい時代になっており、文学研究者と呼ばれる群盗はそれを以て業績とし、あわよくば出世の道具ともしようと、無粋も甚だしい。ロンサールに向かう場合、これらの無粋さ、不相応さはなおさら際立って見える。ただ熟読玩味、暗誦し、讃嘆し、その集の前に瞑目するばかりであり、それでもなお余力と余暇が得られる時にのみ、彼の詩法についての考察を加えることが許されるかどうかである。1524911日生まれ、15851227日死去。文学能力、詩作能力、読解能力における下々としては、この誕生日と命日にせめては感謝と祈りを向け、詩王の中の詩王によくよく詩的加護を希求すべきであろう。




[原詩]
Quand vous serez bien vieille, au soir, à la chandelle           

Pierre de Ronsard


Quand vous serez bien vieille, au soir, à la chandelle,
Assise aupres du feu, devidant et filant,
Direz, chantant mes vers, en vous esmerveillant :
Ronsard me celebroit du temps que j'estois belle.

Lors, vous n'aurez servante oyant telle nouvelle,
Desja sous le labeur à demy sommeillant,
Qui au bruit de mon nom ne s'aille resveillant,
Benissant vostre nom de louange immortelle.

Je seray sous la terre et fantaume sans os :
Par les ombres myrteux je prendray mon repos :
Vous serez au fouyer une vieille accroupie,

Regrettant mon amour et vostre fier desdain.
Vivez, si m'en croyez, n'attendez à demain :
Cueillez dés aujourd'huy les roses de la vie.