2015年8月31日月曜日

仕舞う



昨夜はたくさん食器類を使ったので
朝起きると
洗った後すっかり一晩で乾いた食器類が
山のように積み重なっている

グラス干しのところにある
ちょっと高価なシャンパングラスやワイングラスを
壊さないように注意深く手に取りながら
そろりそろり
片付けを始める

すこし薄い皿も注意して持ち上げながら
そろりそろり
ゆっくり
ゆっくり
片付けていく

食器棚にぜんぶしまい終って
ようやく朝食つくりに辿りつけるまでに
まだどのくらいかかるんだろう
そろそろお腹も空いてきたんだけど…

そんなことを思いながら
以前うっかり割ってしまった
薄い薄い高価な皿のかたわれの一枚を
そおッと
食器棚の定位置に仕舞う
妻との生活のはじめの頃に
ずいぶん時間をかけて専門店で選んだ
青磁の皿が
二枚ならんで揃っていた頃を
思い出しながら
仕舞う

店に並んでいた光景を
思い出しながら
仕舞う



2015年8月28日金曜日

むかしは友がいっぱいいたような気がしていたが




むかしは友がいっぱいいたような気がしていたが
友だと思い込んでいただけのことなのが今はよくわかる
今ならもっと正確に知り合いとだけ呼ぶたぐいの人たちを
友なのだと思い込んで友情はどうあるべきか御大層に考えてもいた
相手側は同じように思ってくれてはいなかったのが
後に起こっていったさまざまな出来事の結果今はよくわかる

友になるかもしれない
友になってくれればいいなと思う人が
今でも出てくることはあるがそんな夢に倒れ込んでいかないように
していなければいけないなと思うのはもう少年でも青年でもないか
アメリカ映画なんかで友情がいっぱい描かれるのは国情もあろうが
やはり滅多にないことだからでもあるのだろうか
日本映画で友が描かれるといつも居酒屋や浜辺がらみだったりするのは
友が告白めいたことのできる相手と認識されているからだろうか

いろいろな悩みごとを話せる相手が友だという定義はもっともらしいが
せっかく一緒にいる時間を悩みごとなどを話して
時間を浪費してしまうのがもったいない人こそ友だとも思うし
だいたい居酒屋などで一緒にいる時間が多いなんて
ただの飲み友だちや一種の悪い仲間に過ぎないとも思える
本当の友と会うのがいつも居酒屋や喫茶店やバーでは情けないが
今のこの国での生活の常態として他のあり方がないという侘しさはある
友というのはきっと時代や環境に甚だしく影響されるテーマで
だとすれば友なんてどうやらもともと友ではないのではないかとい
話にもなってくるのは友というのが本来永遠性や不変性を持っているから
持っていてもらいたいとの希求がこちら側にあるから
そんなものの片鱗もない友など居てもしょうがないのだから

こちらの生活が変化するたびに剥がれ落ちていった友らは
こちらが持っているものや得たものを持っていなかった人たちで
ようするに運命や生活上の環境・条件・物品などの均衡や均等
そんなものが危うげにも互いの間にできあがっている時だけの
はかない小さな共同体の幻だったのが今はよくわかる
だから友というのはろくな物を持っていない若い頃に大量発生する
人生に歴然とした差がさほどない頃にできやすい幻想
その頃の幻想を騙し騙し維持していくのが人間には課題となるのか

ほろりぽろりぽつりと一枚一枚幻想は剥がれ落ちていきながら
最後まで残った幻想もそうそうに手放して冷笑しながら老いるか
それとも固く掴み続けながら相手の無理解やふがいなさを
そう、多くの老人がやり続けていくように
毎日毎日友でもない介護師や通りすがりの人たちに語って
ぶつぶつぶつぶつ念仏のように批難し続けていくのか
ようするに友という観念の確定も限界認識もはっきりせずに来て
ひとつの夢や希望の綻びていく終わり
いわば賽ノ河原に来てもなおもぶつぶつぶつぶつ
あいつはひどい、友の名に値しない、あの態度はなんだ、あの言い草は…
などとヘンな生物のようにあるいは妖怪の一種のように
呟いたり他人に声を荒げたりしながら衰え声も低まっていくのを
受け入れていく他ないのか人界というところでは



2015年8月24日月曜日

湯木村律子さん…




幽霊が
ひょいひょい出てくる
夢を
今朝がた見たが

(そうか
(これからは
(こういうことなんだ
(見えることを
(もう避けられないんだな

それなり
充実した気分で
落ち着きある古い木造の
日本家屋にいて
薄暗いなか
覗きこんできたり
横に立ったり
むこうに現われたりする
幽霊たちの
話を
いちいち
聞いてやっているのだった

起きると
朝顔が七輪も
八輪も
かたまって咲いていた

小学校の最後の夏に
小さな
うれしい贈り物を
引っ越していく
湯木村律子さんから
貰ったことも
ふいに思い出した

湯木村さん…

湯木村律子さん…



なんだかエノコログサになってくる



大きな病院で
患者の人たちを次から次と見続けていると
なんだかエノコログサになってくる
ひとり秋にもなってくる

コーヒーは濃すぎる
ちょっと山に入りかけたあたりの
沢の水なんかが
ほしいな
ほしいな

ソファに座っていると
角で掃除の人どうしが喋っている
あそこの隅は
磨いてもきれいにならないんだ
材質が古いからね
あれで精いっぱいなんだ

足もとのリノリウムは
ピカピカなのに

川の水面のように
ピカピカなのに



いたのを 忘れないよォ、と



紙の
ようであって、いい

人は    

はらはら
ひょろっと

薄い紙を
立てた
ようであって、いい

生きて
いなっくたって
たぶん、いい

そこに
いれば、いい

いなくったって、いい

いたのを
忘れないよォ、と
たぶん、
無というやつが
小さな
聞こえないような声で
言っている

空気も
言っているかも
しれない

光や
影も
言っているかも
しれない

いたのを
忘れないよォ、と




2015年8月18日火曜日

もぉ!詩人さん!なんだからぁ!もぉ!




愛する対象の中のなにを、一体、我らは愛するのか?
       アルフレッド・ド・ミュッセ 『ナムナ』
Dans un objet aimé qu’est-ce donc que l’on aime ?
Alfred de Musset Namouna



たゞの語り口の妙だけで
詩を書いたつもりになっている人が多過ぎるこの国では
助詞や助動詞を
ちょっと工夫して軽くしたり
あるいは60年代ふう
70年代ふう
80年代ふうにすると
ワッと読者は増えたりするが
たゞそれだけのことで
90年代ふうの小室哲哉調にしたりすると
一気に読者は離れる
オールドファッションドの言語趣味の読者たちは

ましてや
マラルメ調やブルトン調ともなると
老いも若きも
もう平成人たちには
付きあえる体力は払底しているらしい
ひょっとしたら
ラフォルグ調あたりを
リバイバルさせるのが好適だろうか

詩は(あるいはお望みならば
言+寺は)
人生観の衝突である他なく
衝突のさなかからたまに停戦地域が発生したりする
そんな稀な地帯で
さっきまでの敵同士が束の間憩って
こいつ
案外話せる奴だったんだな
と思いあったりする

ぼくはやっぱり
その人なりの日常に埋没し切っている人たちが好きではなく
バーや居酒屋ばかりに行っている煙草臭い人たちも好きでなく
かといって酒も飲まない喫茶店主義者たちも好きでなく
いや喫茶店なんてダサイよカフェでしょカフェという連中も嫌で
たまには散財できない人たちも好きでなく
どこかの宗教に固まった信者は大嫌いだが
真言立川流はもちろんのこと
魔術や瞑想修行に数十年費やしてこなかったような
甘ちゃんたちは相手にする気もないし
うんざりするほどの愛人沙汰も経験してこなかった小市民は
もちろんバカらしくて相手にできない
まるで色恋に通暁したかのように自慢する成金クラブの奥のオヤジ
歯のスカスカやシミの多い顔を見ているのも嫌だが
饐えた臭いのどうしても隠せない中年女たちが着飾って
美しくもない手指に指輪をいくつも嵌めたり
似合ってもいないブランド物をやはり似合わない着方で肩にかけ
油の黄色く染み上がって来ている白目で
あたりの若い男たちを見まわすのを見るのも好きでなく
裕福な老年の女性たちの手の甲に血管が黒々と沈んでいるのも
あまり楽しく見ていられるほうでもない

だが
もし現代の世の中にマダあるとすれば
詩というのはそうした連中の棲息するあらゆるところにある
安い油の豆腐料理を食べた後の中年風俗嬢の歯の食べカスの中に
即座に詩を見つけられないのならば
断言するが
そいつは詩人ではありえないね
逃げるなよ
詩人!
ただちにお前はお前のペニスをお前ふうに出して
その中年風俗嬢の食べカスだらけのお口で
お前ふうにフェラしてもらうべきだ
お前ふうに立たないのかい?お前ふう詩人?
体の臭うあらゆる中高年に向かって
死臭漂う終末病棟で
大災害や国際武器商人ら御用達の戦乱の惨状の中で
なおも唾液や粘液の交換たる“愛”(スピノザの定義)とやらへ
心身を投入し続ける勇気もなくて
なにが詩人!
なにが詩!
ヤワな甘い涼やかな小市民的な“へいわ”なほわほわな
ふわふわな
かっわいいところで
なにかコセー的なちっちゃな発見したつもりでメモしちゃって
バーコード付きのちっちゃな詩集
またつくっちゃおうかな
どこのブティックに置いてもらおうかなぁ
わきにはハーブティーとか
マカロンとか
いっしょに置いてもらうとキレーかもぉ?
なんて
水色の妄想しちゃって
もぉ!
詩人さん!なんだからぁ!
もぉ!



誰もが予備軍に過ぎずわずかの時間差があるだけの歩く影たち


   人生は歩く影にすぎない。
     シェイクスピア


見舞ったのはその病室のひとりだが
四人部屋なので他にも三人横たわっている
死に至る重病の末期というのではないが
死に至る老いの末期でみな寝たきりになっており
もう自力でベッドから出ることはできないし
食べるにも自力で口に運ぶことはできない
みなそれぞれに認知症なので反応も一様ではない
口に食べ物を運んでもらえばまだ咀嚼する人もいるが
もう流動食しか受けつけない人もいる
うまく嚥下できなくなり流動食も危険な人もいる
見舞った人ももう嚥下できず点滴に切り替わっている
点滴に替えれば飲み込む筋肉と舌はどんどん衰えていくので
二度と口や食道や胃からの食事に戻ることはない

ひとりひとりを見まわすと誰もがほぼ同じ顔をしている
顔や頭の骨格がくっきりとしてテカテカした面のようだ
口を半開きか大きく開いて寝ていたり虚ろに目を細く開いている
ときどき鼻腔の奥で噎せるようでゴスゴスと鼻で咳き込む
開いた口の中では舌がゼンマイの芽のように裏を見せている
開きっぱなしで口内が乾燥しっぱなしなので喉も咳き込む
入歯を取り去った後のまばらな歯と歯茎がずっと見えている
手の甲などは意外と痩せて見えないものだが
ろくに食べもしないし運動もしないので腿も細くなっている
細くなった腿を見るのは寝巻の上からでも痛々しい
点滴500mlが下がっていて透明な液がまだ残っている
成分を見ると生理食塩水とブドウ糖しか入っていない
これではどんどん衰弱していくばかりだが
ブドウ糖やアミノ酸を含む高カロリー液は使わないのか
けっきょくは衰弱させていったほうがいいというわけなのか
介護しているかのようで意識レベルも体力も落としていく
ただこれだけのことをしてもらうにもずいぶんお金が出ていく

きっと優しい有能な看護師ふたりほどを家に雇って
介護用の特別室に寝かせて世話をしてやればいいのかもしれない
そうすれば意識の晴れ間には談笑もするだろうし
毎日入浴もさせてもらえれば身だしなみもしてもらえるだろう
顔つきから気分を読み取ってふさわしい音楽をかけてもらったり
好きな味のお茶や氷菓をちょっとずつ口に含ませてもらったり
本を読んでもらったり今日のニュースを語ってもらったり
季節の花を枕元に置いてもらったりランプを調節してもらったり
陽の移ろいに応じてカーテンやブラインドを開け閉めしてもらった
そんなことのためには看護師ひとりに月30万も払えばいいのか
ふたりなら60万を毎月支払って諸経費あわせて80万ほどか
家の改造費もいるから他に数100万も要るだろうか
そのくらいにしてようやく人間的な終末を過ごさせてやれるのか
年間ひとりの寝たきり老人に少なくとも800万はかかるのか

人間は最期まで手で握る力だけは強いままだというが
確かにこの時期の人たちもそうでいつまでもこちらの手を離さない
眠ったままなのかそれとも何処かでほんの少し起きているのか
手に触れてきた他人の手を強く握って離さないでいる
この力がどこまで続くのかどこから失せて行き始めるのか
肉親や友人や看護師はそれを見定めていくことになるのだろう
自分たちの十年後や数十年後の姿をあらかじめ見収めておくように
見てきたかぎりではひとりひとりの命の終わり方はいろいろで
なかなか水に浸かり切らないシーツを洗濯する時のように
水面に出ている部分を手で何度も水に浸け水に浸けしながら
ようやく濡れたシーツの中の空気を出し尽させて沈ませるのに似て
最期まで来ている人にはある時点から沈ませる作業が必要になってくる
最後の最後まで治そうとし救おうとする気持ちはもちろんあるが
もう自力で体を動かせず意識も飛び飛びで月100万も出せない場合は
治そう救おうという作業の実際はいろいろ個別のかたちを採りはじめる

それにしても開けっぱなしの口がもう少し乾かないような
簡便なフェイシャルマスク様の薄いマスクなどは作れそうではない
鼻の穴と口だけを粗い潤った網で覆って頬に広げて貼るようなマス
意識も朦朧となって動けなくなった誰もが口を開けっぱなしにするなら
口内の乾燥を防ぎ感染を防ぐそんなマスクも開発しておいても悪くない
そう思いながら病室の四人の老人たちの顔を見まわし直すと
能面にあるような頬骨のつるつるした輪郭がくっきりと浮き上がっ
いったいどこへと向かって眠っている人たちだろう…
蛹のようにあるいは人のかたちの容器か舟のように
とにかくも然るべき時が来るのを待ち続けているのが見える
病院の外へ出て健常者たちとすれ違ってもきっとが見えてしまうだろう
此処にいる蛹のようなあるいは人のかたちの容器か舟のような
息だけしつつほんのちょっとだけ先に動かなくなった人たちの
誰もが予備軍に過ぎずわずかの時間差があるだけの歩く影たちなのだと





2015年8月16日日曜日

超えた視野が



いのちを語るひとは
いつも
いのちから離れている

考えとことばは
いつも
引き離すことしかしないから

語らない
考えない
抱えない

超えた視野が
ようやく
広く波紋を行き渡らせるように





言葉はイメージです。



   
どうも死んでいるらしいな
たぶん死んだにちがいない
きっと死んでしまっている
ぜったい死んでいる感じだ
どうみても死んでいるはず
疑いようもなく死んでいる
ほんとうに死んじまったよ
断じて死んでしまっている
まさか死んじまうなんてな
もう死んじまってるんだよ

  
(注)言葉はイメージです。





…少なくとも、どの私を、どちらの私を、とはもう、




どちらの私を…、と少し逡巡する間に、たちまち
どちらの私の先にも万枝の私が伸び広がって繁茂してゆき
いつもあなたにどの私を差し出したらいいのか、迷ってしまい、
迷ってしまうまゝに、万枝の私それぞれも「私こそが
本当の統括者たる私…」と主張し始めるので、最初の私など

どれだったか、すっかりわからなくなっている始末、こんな時、
よく人は“道”とかいうものにすがるのだが、道を、
傍らの無数の草たちはけっして道とは認めないはずで、私、
という、ちょっとでも気を抜けば、気を散らせば、
かすれてしまいそうな声が、“道”のように見えるところの上、

見えないところの上にも、しばし漂って、聞こえなくなっていく…
消え失せてしまう、というのではなく、聞こえなくなっていく…
拡散してしまう、というのでもなく、蒸発してしまう、
というのでもなく、聞こえなくなっていく、…そこでしかたなく、
歴史の資料を集め直し、記述し直そうとする者のように、

私、と発語してみることから、(たいした見通しもないのに…)、
また始めてみたりする、万枝にたちまち分岐して、
どうにも収まりのつかない繁茂を統べる手立てもないのに、
しかも、“統べる”など、ひどい悪行ではないかとの思いさえ持ち、
初めから多層のどの層でも分裂を抱えつつ、あゝ、また、

聞こえなくなっていく、たぶん、しかし、そこまでは…、
と、たった一人きりというのに反響は耳に届き続け、誰からの?、
私からの?、と隠微な問いも返り寄せ続き、聞こえなくなっていく、
…少なくとも、どの私を、どちらの私を、とはもう、思い浮かべさえ
しない両耳の間に、不安定に揺れながら浮いている気分で、…




2015年8月15日土曜日

戻る、ひさしぶりに、『若きパルク』の冒頭に



わたくしの読み慣れているヴァレリーの詩集は
一九四二年発行、ガリマール書店の
いわゆるフランス装の
代表的な版として有名なブランシュ版
その一九六六年十二月五日印刷版

この頃手に取らなかったが
ふと取り出して『若きパルク』を捲ると

〈神秘なる我よ、けれどお前はまだ生きている!
〈お前は曙の光でお前を見分けようとする
〈苦々しくも同じお前を…
〈               海の鏡が立ち上がる…
〈そして唇には、諸々の兆しの消滅が
〈物憂く告げる昨日の微笑みひとつ
〈それはすでに東に、光と石の青白い線を凍りつかせ
〈いっぱいの牢獄を凍りつかせ
〈その牢獄には唯一の水平線の輪が浮かぶだろう…
〈見よ、肌も露わなひどく純粋な一本の腕が見られる
〈わが腕よ、ふたたびお前を見る… 曙を纏うお前を

こうも読めるかもしれない部分が
ふいに開かれるが
マラルメの弟子ヴァレリーは
マラルメほどではないにしても
主語や動詞や目的語の語順を壊して散らしてある上
フランス語詩の魅力は
一行一行ごとにイメージの完成と変質と破壊が進行していく
きわめて動的な意識の冒険が読者に提供されるところにあるので
はじめのあたりはじつは
こう訳されてもよい…

〈神秘なる我よ、しかしながら、お前はなおも生きる!
〈お前はお前を見分けようとするのか、明けの光で
〈苦々しくも、同じお前を…
〈                海の一枚の鏡が
〈立ち上がる… そして唇には、昨日の微笑みひとつ
〈物憂く、諸々の兆しの消滅が告げる…

これ以上は、ヴァレリーがわざと置いたように
単語を訳していくのは無理で
ここから読者は完全にフランス語だけでの読解に埋没していかねば
ならない
ならない
日本語に移し換えようとすればマラルメーヴァレリーが
最も重視した単語配列の衝撃創造を破壊し
まるで総天然色カラ―の壁画をモノクロ一色に落し込み
それをさらにコピーしコピーしコピーして
細部や彩やムラを潰し尽してしまう…

〈                海の一枚の鏡が
〈立ち上がる… そして唇には、昨日の微笑みひとつ

というところも面白い、『海辺の墓地』の最終連の

〈風が立つ!…努めねば!生きようと!
〈広大な気が開き閉じるわが書
〈しぶきとなって岩から迸らんとする波!
〈飛翔し行け、眩暈の極致のページ!
〈打ち砕け、波たち、嬉々とした水で
〈三角帆が啄む静かなこの屋根を!

この一行目に似て
立つ、起こる、立ち上がる、立ち起こる…などと訳せる
ふつうは「起きる」「起き上がる」と日常では使われる
代名動詞se leverを使ってあって…、そう、
堀辰雄が『風立ちぬ』に用いたあれ、
まさにその原典…

わたくしは
わたくしたちは
マラルメーヴァレリーからあんなにも主語や動詞や目的語の
語順破壊を学び
ランボーからは日常的意味の構成一歩手前での撹乱を学び
シュールレアリズムからは日常的論理からの逸脱を学び
ボードレールからは全世界に通じる骨太の感傷を学び

…駄弁
…駄弁
…ダベンダー

それはそうと
戻る、ひさしぶりに、『若きパルク』の冒頭に

 〈泣くのはだれ、そこで?
 〈ただの風じゃないんなら、こんな時間
 〈至上のダイヤモンドたちだけを伴って…
 〈泣くのはだれ、いったい?
 〈わたしが泣こうとする時に
 〈こんな近くのわたしのそばで?

ヴァレリーの『魅惑』を西脇順三郎さんも訳していたが
学生時代に習った平井啓之先生も『若きパルク』を訳していた
いま掲げたのは平井先生の頑張った訳でもなく
鈴木信太郎の格調高き訳でもなく
今ふうにわかりやすくした拙訳

じつはヴァレリー
彼の残した詩のかたちを無視して
改行も単語の配列も自由きままにやわらかく訳すると
とんでもなく面白くて
わかりやすい

ほんとうに読みやすい新訳
できるかな、ヴァレリー研究者たち?
やってくれるかな、研究者たち?
高踏の象牙の塔に籠ることなく?