2015年12月24日木曜日

あの舟は


あの舟は
釣りの人を乗せているのか
靄が水上に掛かって
わずか浮いているようにも見える
ここからでは
遠すぎるからでもあるが

小さな舟で
屋根があるわけでもないのに
誰もいないように見えるが
いないように見える居方なのか
釣りといっても
なにを釣るかは様々で
竿も糸も使わない釣りもある
釣られることを
釣りと呼びたがる人も
そんな時期もある

釣りの人を乗せていないようなら
ひとりで水上へ出たのか
あの舟は
ここからでは
遠すぎるようだが
ならば呼べば
寄ってくるかもしれない
みずから意志を持って
舟としての矜持も持って
漕ぎ出したのならば




2015年12月13日日曜日

これっぽっちの区別も

  
 やがて来る
 かなしい季節が
 恋人なの…
 松任谷由実 『晩夏』



たったひとりでいる時だけ
ひとりではないと気づいてから
じぶんで拵えた森
じぶんで吐き出した深み
じぶんで濾過し続けている静寂
そんな中に
こうして居続けている

たまに
感傷たっぷりのポップスなど
古い再生機でかけて
…でも
ちゃんと聞きもしないで
いつも
放ったらかして
湖まで
歩きにでちゃったりする

たったひとりでいる時だけ
ひとりではないと気づいてから
心臓も
脳も
なにもかも
透明にしておくすべが
わかり
湖のほとり
どこまで
じぶんで
どこから
夕べの気か
これっぽっちの区別も
つかないほど



べつの病に




人文科学は書籍のフェティシズムと解釈者のシャーマニズムの結合である。
                                                                            ノーマン・ブラウン



海のかなたには…
などと
すぐに言いたくなる病も癒えて
オットーは
「運命なんて、ないんだ
とか
「人から金をもらうのは召使だ
などと
アラビアのロレンスの
言葉なんか
引用して
この頃
楽しんでいます

べつの病に
罹っちゃったみたいですね




かわいいままでおいでよ



女神なんてなれないまま私は生きる
新世紀エヴァンゲリオン「残酷な天使のテーゼ」



寒くなった日
たとえば待ち合わせ場所で会って
寒くなったねぇ
などと言ったりするのが
ほんとうに
きらい
きらい
きらい

かわいいままで
おいでよ
かわいい女のままで

などと
言いたくなってしまう
そうして
フィッツジェラルドの一節など
思い出してしまう

「あたし、麻酔がさめたとき、とてもすてばちな気持ちでさ、
「さっそく看護婦さんに、男の子か女の子かってきいたんだ。
「そして、女の子だって言われて、顔をそむけて泣いちゃった。
「『いいわ、女の子でよかった』って、
「あたしはそう言った   『ばかな子だったらいいな。
「女の子はばかなのが一番いいんだ、
「きれいなばかな子が」って*



*『グレート・ギャツビー』村上春樹訳。





ただの肌となる



同世代の書き物を見ているのがほんとうに嫌いだが
上の世代のものを見るのも嫌いだ
下の世代の声はそもそも傾聴するに値しないので見もしないから
けっきょく自分だけが書いてそれを読み続ける他ない
しばらく前から日夜しゃべりちらすのを録音することにもして
朝まで寝室でエンドレスにそれを流し続ける装置も作った
自分の言葉などありはせず全ては借り物に過ぎないとはいえ
自分の脳や口や指から出て行った言葉だけを取り込み直し続けるの
わたくしのこの世での言葉とのつきあい方になったようだが…

むろん安住するつもりなどない
そんなやり方には
エンドレス自己音声再生装置などそろそろ破壊して
自分が書いたものもすべて捨てて
しかしもちろん他人の言葉を読んだり聞いたりする気ももちろんな
ただの耳となる
ただの目となる
ただの舌となる
ただの肌となる


しばらく霊たちの憑依が…

  
しばらく霊たちの憑依が続いていた
むしょうに旨い牡蠣フライが食べたくなったり
ひさしぶりに歌舞伎に浸りたくなったり
大量の古楽器演奏を聴き直したくなったり
ニーチェやフーコーやバフチンばかりか
ヤーコブソンや内田百閒などまで同時に読み耽りたくなったり
ラテン語とイタリア語とドイツ語の復習に
しっかり時間を割けないことが苦しくて堪らなくなったり
今ではよくわかっているが
こんなことはルネサンス以来の憑依霊や指導霊たちが
冬の訪れとともに騒ぎ出すからのこと

このところ打ち捨てて使わないでいた
古いMP3ウォークマンを机の奥から出して
朝から晩までバッハのチェンバロ協奏曲を耳に鳴らし続け
盛時のピノックがもちろんいいにせよコープマンのほうがいいのも
やっぱりあるとともにムジカ・アンティクア・ケルンでないと
満足のいかない曲もあるなどともう20年来のためつすがめつを
またくり返し直して
ようやく精神の均衡を取っている始末の
あゝ、まるで1990年代の終わりが不意に蘇ってきたような
2015年の終焉間際の数週になるのか…



2015年12月12日土曜日

冷えた紅茶を啜る



昨日は寒さがやわらぐどころか
夏のようにふいに暑さが南海から寄せて
冬着の人々に汗をかかせたが
今日はだいぶ気温も落ちて
冬らしい曇り日に戻っている

ちょっと書き物をしたくなったのも
冬らしさの戻りの
そんなせいかもしれない

書いている間は
妙なもので
逆になにも考えないでいられる

淹れておいた紅茶は
飲みさしたまゝ
机のわきに忘れてしまって
…どうやら
すっかり冷えてしまった

冷えた紅茶を啜る

遠い昔の
まだ十分に思い出し直していない
たくさんの瞬間瞬間を
心のてのひらの中で転がすようなぐあいに
カップの中で
心持ち
揺するようにしながら




2015年12月8日火曜日

夜になってくると


夜になってくると
眠たくって
眠たくって
しょうがない

面白そうなレイトショーが
あそこにも
ここにもある
ったって
眠たくって
眠たくって
しょうがない

飲み会に呼ばれたって
眠たくって
眠たくって
しょうがない

すてきな美女から
それとない誘いが来たって
眠たくって
眠たくって
しょうがない

朝は五時から
もちっと遅くたって
六時から
起きて読んだり
書いたり
考えたり
メモしたり
整理したり

そうして
十時頃にはもう
一日の最良の活動を終えて
あとは流すだけに
しているもんだから

夕方にもなれば
夜にもなれば
もう
眠たくって
眠たくって
しょうがない



寒山拾得系



お客さまのお好みや
必要となさっているものは
よぉく存じておりますよ

そんなまなざしと
口ぶりで
自信まんまん
慣れ切った調子で接してくる店員から
遠ざかりたくなるように

マーケティングされ尽した
見せ場や
感動を盛ってくる
映画からも
小説からも
もちろん
テレビの安っぽい番組からも
遠ざかると

なんだか
個性も主張もない
地味な勤め人や
フラッと買い物に出たご近所の人
どんどん
そんな感じになっていく
わたくし

もちろん
それでこそ
いいと思っている
寒山拾得系の
わたくし



いまにして思えば



いまにして思えば
唯一の
友だったのか
と思う…

その人が逝ってから
もう
なにを書くでもないな、と
思い思いしてきたが
詩のかたちのものなども
それでも
二千ちかく
書き落としてきたのか…

なにを
表したかったというのでも
ないが…

その人が逝ってから
まだじぶんに
言葉はありうるのか
思いや感情は
かりそめであれ
まだ
湧くのか

そんなことを
確かめたかっただけの
書き落とし
だったか…



たぶん たましいを

  

大事に思うメールに
よく考えて
ことばもよく選んだ上で
返信しようと思うと
かえって
いつまでも書けなくなってしまう
事務的な返信や
アポをどうするかとか
そんなメールなら
すぐに返せるのだけれど

メールひとつ書くのにも
混んだ電車の中ぐらいしか
時間がとれない

おゝ晩秋よ
おゝ初冬よ

ゆっくりと時間をかけて
お茶を淹れて
小さな菓子なども
小皿に載せて机に置きながら
大事な手紙に
お気に入りのペンを使って
返事を書いていた頃の
あの心持ちを
あの雰囲気を
心の中で
思い出の中でばかり
わたくしは蘇らそうとする

揺れのやまぬ
混んだ暑い電車の中で
ぎっしり立ち詰めになって
たいていの人が電子画面を見つめて
みなそれぞれ
自分だけの遠い故郷へ
今でなく
此処でなく
憩えるどこかへ
たぶん
たましいを
…たましいを?
…そう
たましいを
飛ばしている
こんなあまりに特殊な
そしてあまりにありふれた
此処
環境のさなかで




2015年12月6日日曜日

人はパンのみにて…

  
だれも助けてくれない
だれも助けようもない
そんなところにこそ
ひとりの人の
その人らしさは息づいている

人はパンのみにて生きるにあらず

パンの栄養の
届かないところに
その人らしさは息づいている
その人自身が
その人の栄養である
ところに



口にしたそばから


私は
私はね
私としては

そんなはじめ方で話さねばならない場所が
ほんとうにイヤ

口にしたそばから
プイと横を向いちゃうか
いなくなるか
霧のように散っちゃっている
なんだもの




心の小さな旅を

  
人のことや
世の中のことなど
書きたくないな
読みたくもないな

そんな気持ちが
どんどん強くなる

好きになれなかった
堀辰雄なんかを
こっくり
こっくり
読み耽りたくなったり

すっかり興味の失せた
歌舞伎なんかを
ふいと
見に行きたくなったり

心の小さな旅を
小さく
小さく
そんなふうに
まだ
続けていく




その人だけの楽園が開けるような気がするなら


美とは、わたしには幸福の約束でしかありえないと思われる。
スタンダール『ローマ、ナポリ、そしてフィレンツェ』


幸福にも美にも定義がないように
詩にも定義などない
喜怒哀楽や
小説に仕立てる根気のない生活のごたごたとか
希望や願望を書いて詩だと主張する人たちを
バカだなァ、本当に…と思うけれど
そんなことはその人たちの勝手
口調やリズムが詩だと言う人たちや
現実を超えた気分に至れるかどうかや
多層的な思念構造をコンパクトに盛り込めるかや
現実世界の多様な要素を混濁させられるかや
むかし小林秀雄が題名にしたように
『様々なる意匠』そのものの好き勝手な定義や
思い込みが未だにわさわさしている
詩という領域

そんな人たちが集まって
仲間内だけで詩人と呼び合っている光景も
さんざん見てくると
少なくともそういう場には詩はないということが
よくわかるようになる
よぉくわかるようになる
かつて流行ったことのある老詩人のまわりに
無名の詩人気取りさんたちが集まって
詩人資格とでもいうのかしら
そのハンコを押してもらおうと必死だったりする光景も
あちこちでうんざりするほど見るが
ハンコを押す手がもう世間には見向きもされない
老詩人のほうはといえば
介護してもらう際の人手集めや
忘れられないようにするために計算づくなので
双方でどろどろした欲の交わりであったりしている
いずれにしろ
世間はそんな老詩人など
忘れ切りもしないもののどうでもいいので
老詩人やそこに集まる連中があがいても
さばさばとした風景が続くばかり

詩というものはなんであってもいいし
なにを詩と呼んでも呼ばなくてもいいが
言葉というのは
ハッと
こちらに入り込んできてしまうことがあって
そんな瞬間を詩と呼ぶようにしてみると
埃くさい書庫や
カッコつけているアーティスト気取りの集まる
コンセプト古書店とかナントカヤ書店とか
もちろん
詩人さん行きつけのバーとかカフェとか
そんなところからは遠ざかるばかり
ごくふつうの日々のくり返しや
鄙びたマーケットのレジの後の荷台からの窓外の風景や
ふと立ってみるJRのホームの端っこや
入ることのない安ラーメン屋の幟を
かすめて行く瞬間こそが
詩にふさわしいところに感じたりする

どこにいたって
ハッと
言葉は入ってくる
詩人を気取る人たちのそばにいる必要はない
詩集の束を身辺に置いておく必要もない
どこもかしこも
詩でないところはない
ある言葉のむこうに
その人だけの楽園が開けるような気がするなら
それが詩
万人の楽園ではいけない
その人だけの楽園が開けるような気がするなら