2016年2月29日月曜日

逃げ


ずいぶん高齢なのに
国内ばかりか
海外からも
友達の友達だの
そのまた友達だの
次々と
自宅に迎えて
泊らせたり
世話をしてやったりして
その人たちに
ずいぶんと煩わされ
かき回され
めんどう続きで
よくまァやるものだ
活力にあふれ
精力的なことだと
感心していたが

あれこれの集まりや
クラブや
カルチャーセンターやで
なんと
毎日が埋っているのだと
ふと
聞き知るにおよんで

ようするに
ひとりを生きられないだけではないのか
じぶんひとりを生きることができず
そこから逃げ続けているだけなのではないのかと
見抜いてしまった
気がしたが

まちがいかな?

いじわるかな?



友のイメージのひろがりのうちに



病死した友のことは
大病で衰弱していく刹那刹那を撮ったから
たくさんの写真が残っている
デジタルの時代になっていたのが幸い
外付け大容量ハードディスクに貯蔵できているから

選んだ写真を人に見せることもあるが
見せづらい写真もいっぱいある
憔悴して痩せて
骨と皮ばかりになった姿は
いつも傍にいた者には友の像の一部だが
ちょっと遠ざかって見直せば
餓死寸前の人の姿だし
ふつうの生活をしている健常者には
やはり見るのは辛いかもしれない
意識が戻らなかったらどうしようと思いながら
大手術の後でベッドに寝ている姿を撮ったものもあれば
その時の美しかった大きな夕暮れが見晴らせた窓から
刻々と暗くなっていく西空を撮った何枚かもある
手術で摘出した内臓の写真もある
本人が確認できないのでかわりに確認したのだが
ここにガンの転移が
こことここにも転移が
と執刀医師から説明を受けながら
カメラを近づけて撮影しておいたもの

人に見せづらいほどでもないが
病院の廊下さえ疲れて歩けなくなって
ベンチにぐったりと座ってしまった姿や
浮腫んでゾウの足のようになってしまう脚を
毎日マッサージして少しでも細めようとしていた姿
病院食のまずさやつまらなさに辟易して
つまらなそうな顔でお盆を眺めている時間
いろいろなクリニックに無理して出かける際に
タクシーに乗りながら目をつぶって耐えている顔
ふらふらしながらでも自力で立って歩いて
洗面所に歯磨きに行こうとする姿
そんな様々な場面の写真もいっぱい残してある
それらを時どき見直しながら
けっきょく
友はどんなイメージに収束していくのだろうと今も思う
元気で若々しく
美しかった頃の写真のイメージに
けっきょくはまとめておけばいいのか
それとも
病気になってからの
ちょっと苦さの混じった微笑みを撮った写真なども
イメージのひろがりに混ぜていいのか

息を引き取った後の
胸の上で手を組んでいる写真や
死後の時間の経過とともに
顔の険しさややつれがどんどん失せて
子どもの顔のようになっていく刻々の姿や
写真には撮らなかったけれども
火葬が終わって出てきた骨の
よく見つめあったあの目のあたりや
疲れた時に押していたこめかみのあたり
注意して治療したり磨いて
死の直前まで歯間ブラシやフロスも欠かさなかった
あれらの歯がすっかり燃えてしまって
奥歯の何本かに
銀だかアマルガムだかが黒く燃え残って
くすぶっていた様子も
友のイメージのひろがりのうちに
しっかり混ぜて
記憶していき続けるべきだろうか




オ、バ、カ、サ、ン、た、ち、…



からだはほんとうにすぐ汚れる
洗ったそばから汚れ出す
そんな汚れはいのちにすぐ関わるものではないけれど
放っておけばいのちに関わる
きっと昔むかし
雨風にもっと晒されて生きているうちは
こんな汚れも身を守るカバーのうちだったのだろう
汗や油やこびりつく埃や細菌が
もっと危険なものからからだを守ってくれていたのだろう
だがしかし
残念ながら社会というものがきっちりできてしまい
そうなると少しでもきれいな者が
さらさらした者が
いやな臭いのしない者が
いい臭いのする者が
自然から離れた白っぽい者が
ゴツゴツしていない華奢な者が
なんだか尊重されるようになり憧れられるようになり
だれもが右へ倣えになって
窮屈な窮屈な環境になり続けていくようになってしまって
もう元には戻れない
こんな文化文明が根底から崩壊するまでは
わたしはうまくキレイキレイに乗っかってられてるわ
なんて思っている御仁でさえ
十年も二十年も経てばもう時代遅れの埃っぽい垢じみた御老体
感性や考えはどんどん固まっていくだけだから
かつてのキレイは未来のキモワル
みんな流されて乗せられていただけだっていうのに
死ぬ頃になってようやくわかってくるのネ
オ、バ、カ、サ、ン、た、ち、…




つきあいってのはあるもので



人間であるかぎり
まァ
つきあいってのはあるもので
しょうがない
こればっかりは

つまらなそうな人を
いかに避けるか
大人のからだのオコチャマを
いかに避け続けるか

艶笑ネタを国際政治と結びあわせて
芸術やブランドを小馬鹿にしつつ
渋いアララギ派的なふりかけを
マルセル・デュシャンふうにパラパラ
あるいはふいに
コクトーふうの軽い人道主義を
野上弥生子文体に絡めて
ソレルスソースで炒め
ル・クレジオ味アミューズを添えて
でも最後は
クロード・シモンふう粗暴かつ緻密な
カクテルで絞める
ってな対話のできない連中を
いかに
避けていくか

ってのが
やっぱり大問題

おれはつまらないぞ
盛り下がる奴だぞって
わざと
しっかり
むこうにヒシヒシ感じさせる
これが最良の方法だが
これでいつも
うまくいくわけでもない

となると
あの手この手で
いやァ
ビンボー暇なしでしてねェと
連日超過密スケジュール
ってことにして
時にはそれを装った手帳を
わざわざ
見せたりまでして

そうですねェ
一時間半なら時間がとれそうです
とか
あ、30分なら十分とれそう
とか
こんな手は効くよねェ

人間ぎらいじゃ
ないんだよ

おんなじ時間に
会いたい人たちと
おおっぴらに
繁華街のテラスでシャンパンを開けて
小皿料理を次々と
注文していたりするんだから
路地の裏の裏で
ちょっと珍しい日本酒を
あれこれと
飲み比べていたり
するんだから





ネコ汁とスズメの焼き鳥

  
    主体は世界に属さない。それは世界の限界なのだ。
       ヴィトゲンシュタイン 『論理哲学論考』5・632


うちのヴェランダには
スズメも来る
ネコも来る

スズメときたら
草花が枯れて隙間ができた鉢の土を
すかさず見つけ
土浴びをするのが大好き
あたりいちめん
土を撒き散らして
しばらくしたら
また大空へ

ネコのやつは
スズメを狙って来るわけでもないだろうけれど
やっぱり隙間のできた鉢に来て
クンクン
クンクン
スズメのにおいを嗅いでいるのかな
けれど
すぐにヴェランダに下りて
あっちに行ったり
こっちに行ったり

それをぼくは
薄いカーテンの陰から見続けている    

そりゃあ
わけがあるのさ
いつか絶対
ネコ汁にして
こいつを喰ってやるんだ
スズメの焼き鳥も
おかずに添えてやるんだ




行ってろ


知識など図書館にあるし
今ではインターネット上にあり過ぎるほど
正確不正確の差はあっても
宇宙船を遠い惑星に着陸させようとするわけでもなし
正確すぎる知識でないとダメだということなど
この地上ではまずあり得ない
だから酒が不味くなるのに耐えて
学者先生と酒席を構える必要なんてない
酒の席ではとにかく話をみんなに回し
どんな高尚なテーマでも
くだらないテーマでも
艶笑ものでも
気の聞いた文句を各人から引き出しては
みんなで破顔一笑したり
じっくりコロコロと吟味して
またお次の人にやわらかく手渡す気づかいがなければ
どんな御仁であろうが失格
自分のことばかり話したがる輩や
ひとつのテーマにいつまでも拘る輩など
どこかの学術会議分会や
精神科医の診察室にでも行ってろ
っていう話



遠い目 巨大な目



群れた蟻たちが
頭を小突きあわせて
右往左往しているのも
蛾たちが翅をぶつけながら
夏の燈にいっぱい集まっているのも
仲互いとは見えまい
本当に重大な分裂とは見えまい
それで多数が
喰いちぎられて死んでも
燈に焼かれても
燈の下に落ちて蜥蜴に喰われても

人間社会の渦も混乱も
国家の衝突も
文明や民族の興亡も
そのように眺めている遠い目が
巨大な目がある


結局はなにも


偶像はことごとく滅びる。
イザヤ書


結局はなにも
譲り受けたものも
苦労して手に入れたものも
自分で拵えたものも

持ち続けていつまでも
どこまでも
進んで行くことなどできないのだと
本当に
どうしようもなく
できないのだと
徹底して悟らさられていく

それでも
生きているかぎり
風景があり
空があり
森も林もあり
山も川も
海もあって
それらは見え
匂いがし
音が聞こえ
暖かさや冷たさがあり
触わり心地がある



2016年2月28日日曜日

一場のお楽しみ

  
他人の価値観はゴミに過ぎないのだと
わかっていない人が多過ぎる
自分の価値観や美意識が
すぐ隣りの人にとってさえ
ゴミどころか
腐臭を放つ汚染源でしかないと
わかっていない人が

わたくしにとっては
しかし
少なくとも
どれも一場のお楽しみ
これも楽しいし
あれも楽しい
ずいぶん楽しませてもらい続けで
この人から
あの人へ
あの人から
さらにむこうの人へ
グラスを揺らしながら移り

そうして
結局
だれのところにも戻ってこないけれど
楽しませてもらったことは
けっして忘れない
あんな人がいて
あんなことを大事にしていて
あんな美意識を気取っていてね
と夜話にしたりするのも
また楽しみのうち



暗く暗く底を流れる河の景色を



もう花をつけた桜もある
けれど
河沿いの桜並木の蕾は
まだまだ
早春なのに
こんなに固い蕾で
大丈夫なのかと
思うくらい

河は暗く流れて
夕べの早春の景色の一部をなし
うすら寒い
人を不安な気分にする
夕べの暗がりの
雰囲気の底に横たわっている

春が来る
春が来たと
人は期待したり
嬉しがったりするが
こんなうすら寒い
暗がりの底に流れる河を見ながらも
盛りの春の心であり得なければ
老い続け
衰え続けていく人たちに
心の早春さえ
来なくなってしまうだろう

このうすら寒さ
この夕べの暗がり
暗く暗く底を流れる河の景色を
このまま嬉しく見られるのでなければ
あす明後日
数か月後
一年後
数年後の明るさは
心には来ない

いよいよ来なくなる



見るに心の澄むものは


しかし世の中は小癪になりましたネエ
幸田露伴『望樹記』



本当のことを言おうか
たまには
冗談めかしたもの言いでなく

老いも若きも
日々
古典を読み続けていない者は愚かであり
ともに語るには値しないし
時を共にするにも値しない

古典を読み続ける者なら
愚にもつかない人生論を偉そうに言いもしないし
価値というもののそもそもの不可能性や不条理さもわかり切ってい
仰々しい見栄っ張りもしない
かといって
窶し過ぎもしない

侘びたるは良し、侘ばしたるは悪し
とは
千利休

見るに心の澄むものは
社毀れて禰宜もなく 祝(はふり)なき
野中の堂のまた破れたる
子産まぬ式部の老いの果て
とは
『梁塵秘抄』

もちろん
衰えてばかり行け
というのでは
ない
起こるべきことに
こそ
道を開け
ということで…

大貴族の裔にして
ついに子を持たなかった
持ち得なかった
歌人
富小路禎子の歌うように

花毎に黒蝶何か告げてをり薔薇園に小さき乱おこるべし




床屋や商店のそこかしこで


         高く心を悟りて俗に帰るべし。
服部土芳『三冊子』


政治にも世の中にも裏の裏の裏があり
そのまた裏の裏の裏があって
まだまだ裏の裏の裏があるのだから
本当のことがわかりかけるのは
たぶん数百年も経った後
だから現在のニュースを追う必要はないし
話したり分析したりしたくてたまらない人たちと
ちょっと床屋談義でもしてくれば十分

そういえば喜劇作家のモリエールは
よく床屋で人々の話を聞いていたっていう
ふつうの人たちがしゃべる話にこそ
人間というのは露わになるものだし
それらこそが世界の誰もが興味を持つ部分
人間を知りたい場合にも
人間を惹きつけたい場合にも
床屋や商店のそこかしこでしゃべられる
喜怒哀楽のごたごたをこそ
聞いたり使ったり組み合わせたりしなければ




あっけらかん少年の頭のなか



むずかしい表現をするのは簡単だから
それだけはなるべく避けようとする
物語めいたことを書くのも
生活雑記をダダダダダと書くのも
まるで方途を失った老人詩人のようになるから
それもなるべく避けようとする

そうすると並べられていく言葉は
ポカンと口を開いて
なにも考えていないような
あっけらかん少年の頭のなかの
間の抜けた粗雑な思いの
置き石のようになるけれど

じつは置き石のあいだの
空いたところのあっちこっちに
人は思い思いの自分の石を置いたり
大事だったものの幻影や
空(くう)なんかさえ置いたりするのだから
よっぽど好都合ってことになるわけさ