2017年2月27日月曜日

ニャントモニャぁ



「ニャントモニャぁ
よく言う

年じゅう
言っている

うちにいる時には
なんでも
かでも
だいたい
これで済む

とんでもない横紙破りを
また政権がしやがった時にも
「ニャントモニャぁ!

ひょんなミスから
大災害になったニュースにも
「ニャントモニャぁ…

満開の桜や牡丹の知らせに
映像とともに接しても
「ニャントモニャぁ!

お皿にきれいに盛った
料理をぶちまけてしまっても
「ニャントモニャぁ!

トランプが
またまた大統領令を出しても
「ニャントモニャぁ!

ミョウちくりんな反トランプ勢力が
魔女の呪いをかけたりしても
「ニャントモニャぁ…

最近は
外でもあちこちで
「ニャントモニャぁ
を連発するようになっていて
どうやら
方々で
ヘンな目で見られているらしい

このあいだ
湯島天神でたこ焼きを食べた時にも
なかなか旨くって
「ニャントモニャぁ
と言ってしまって
隣りのオバサンに睨まれたし

巣鴨で
なにかの店を覗きながら
「ニャントモニャぁ
と洩らして
座っていたオバアサンに
やけに
侮蔑の目で見られた

それにしても
とにかく
たいていのことへの音声反応は
「ニャントモニャぁ
で済んでしまう
それが
わかってしまったのである

なにを語りかけても
ネコたちが
せいぜい
ニャアとか
ミャオとか
そんな音声反応しかしないのにも
一理あるどころか
二理も三理もあるらしいと
最近は
よくよくわかってきている

至極あたまのいい
ネコたちのことだから
ニャアとか
ミャオとか
その程度の音声反応をしておけば
人間どもは
まァ
適当に考えるだろうと
ぜったい
わかってやっている

まったく
「ニャントモニャぁ…
じゃないか
ニャ




膨らんでいくばかり



せいぜい数十行の
分かち書きのことばの配列を連ねるには
喜怒哀楽も
さまざまな領域についての
こまかな論理のあやも絡まりも
できるだけ
削ぎ落さないといけない

あくまで
ことばの配列の連ねから
削ぎ落すわけで
そんな作業をする頭脳や心からは
容易に削ぎ落とせるわけでは
もちろんない

削ぎ落とせないのだから
すべてを
頭脳や心は
どこまでも抱え込んで
いっそう
膨らんでいくばかり

沈黙を
守り続けながら




もっとわびしがって



夕やみが
だんだん深く
濃く
染み上がってくると
さみしい
寒くなってもくると
わびしい

もっと
さみしがって
いいはず
じゃないか

もっと
わびしがって
いいはず
じゃないか

だれも
たゞ
死へとむかうだけの
この世じゃ
ないか

もっと
さみしがって
いいはず
じゃないか

もっと
わびしがって
いいはず
じゃないか



運命に天命を正しく流し込んでくれるか


 
はじめて踏み入る

名は知っていて
その近くのどの駅へも
周辺にも
行ったことはある
ものの

縦横に左右に歩きまわる

土地の雰囲気や
波動を
感じ取ろうとする

とりわけ
力の
ありようを

おなじ地区でも
そこ此処で
力のありようは違う

ずいぶん違う

近未来
こちらを力づけてくれるか
さらにもう少し遠い未来
運命に天命を正しく流し込んでくれるか

ちょっとの距離でも
違いが
はっきり
ある

家のかたちも
色も
力を大きく左右する

どこかが
必ず
呼んでいて
必ず
選択は収束していく

ものの世界でも
見えない世界でも
すべてが
依存しあい
連携しあっている
ので

ある個人のなんらかの選択は
必ず
決しないと
他の事物や
運命が
決められていかない

近未来
こちらを力づけてくれるか
さらにもう少し遠い未来
運命に天命を正しく流し込んでくれるか

違いが
はっきり
ある

土地の雰囲気や
波動を
感じ取ろうとする

とりわけ
力の
ありようを



うつそみ*



防衛省のレーダー塔には
赤いひかりが
いくつか
シンメトリックに
ぽつ
ぽつ
ぽつ
灯っている

「マンションの物件の広告に
「おもしろいコピーがあったよ
「日本の守りの中心たる防衛省が傍だから
「どこより治安面で安心です
「なんていうのさ

「へぇえ
「東京をミサイル攻撃する側からすれば
「まっ先に打ち込む場所なのにね

夜になると
人もほとんど通らない道を
まさしく
ながながと
ながながと
歩き下って行く

大日本印刷のたくさんの社屋が占めているので
大日本山と呼ばれるところ
時どき
DNPという大きな字が目に入る

防衛省とDNPのあいだの道は
きっぱり
くっきりした
夢まぼろしの道のよう

DNPの建物群が
ずいぶん新しい
SFの都市の一部のよう

人口密集の酷さが取りざたされる東京なのに
この無人の世界はどうだろう
東京のど真ん中のひとつなのに
防衛省のあのレーダー塔が
ポンと一本
はっきりと夜空に
突っ立っている様はどうだろう

「場所がら
「ここをこうして
「通っていっているだけでも
「方々から多くのカメラに写されているんだろうね

落ち着きのない不定形の生を
運び続けている
わたくし
せめて不審者としてでも
無数のカメラたちは
定着してくれているだろうか

それとも
不審者でさえありえない
期間限定の生体の
うつそみ*として
影として
一度は録画するものの
ひと月後あたりには
すぐに自動消去してしまうだろうか

時どき
道を横切るノラ猫たちの影と
いっしょに

亡霊のようなわたくしの
夜の歩行も
うつそみの横切りも




*うつそみ 
うつせみの古形。「この世の人」、「生きている人」程度の意味だが、「現(うつ)し臣(おみ)」から生じた語源に遡れば、神代に対する現世、神に対するこの世の人などの意味あいで受け止められうる。奈良時代の終わり頃からは、「空蝉」「虚蝉」などの文字も当てられ、「はかないこの世」の意味も持つようになった。





2017年2月25日土曜日

水!



ショスタコーヴィチの
交響曲15番の
第2楽章をくりかえし掛けながら
どこに帰る心でもない
透明になるのでもない
うっとりするのでもない
居るのでも
たぶん
ない
ありようで
ないようで

せっかく
しずかな湖のほとりにいるのに
むらさきの夕べに
出ていく気にもならない
ありようで
ないようで

…お茶も飲んでしまって
また
淹れようか
まだ
このままで
いようか 

ジェーンが
そろそろ
車で着くはずだが

    (やっぱり
    (ザンデルリンクのがいちばん
    (少なくとも
    (今日のところは

どこに帰る心でもない
透明になるのでもない
うっとりするのでもない
居るのでも
たぶん
ない

しずかな湖のほとり

出ていく気にもならない
むらさきの夕べ

(なにか
(世界では
(起こったりしているのか…

プシケを造形したという
メタセルフォ作の抽象的な針金細工が
紫檀のテーブルの上に
次第に濃い影を伸ばしていく

行為へと
まだ傾く者の居る
世界があるのか、どこかに…?

おゝ、そうだ、水!

水!




東京の二〇一七年二月二十五日のひとときの夕空



夕陽の沈む頃あい
その前後を
きょうも見続けていたら
ひとすじ
太い光の線が
西空から天頂へ伸びて
しばらく
光の柱が斜めになったように
明るみ続けていた
雲は多くなかったが
柱のまわりに
細かな花飾りのように
ひろがっていた

東京の二〇一七年
二月二十五日の
ひとときの
夕空



十分ほど秒針や分針を見つめ続けると



だれでも
時計のひとつぐらい持っている          

けれども
だれも秒針を十分ほど見つめ続けたことはない

分針ならばもう少し高度だ

十分ほど秒針や分針を見つめ続けると
なにが起こるか
やった人ならわかる

やったことのない人が
人生は問題だらけだなどと
言い続ける




すぐに図に乗るからさ


 
見られたがったり
褒められたがっているのを見ると
いやだな
と思う
ショービジネスなら
しかたないが
ふつうの生活をしている人だと
いやだな
と思う
それだけで
もう見たくなくなる
もう褒めたくなくなる

じぶんひとりで
じぶんを見つめて生きていけ
などと
知ったふうな
お説教を垂れる人もいるけれども
まちがいだな
見つめてはいけない
じぶんは

すぐに図に乗るからさ

じぶん
って
やつは




宿命と呼ぶしかない複雑な糸の絡みあいが

  

人間はひどいものだと
思う
たしかに

しかし
宿命と呼ぶしかない複雑な糸の絡みあいが
やっぱりあって
それがすべてを決めているとも
思う
やっぱり

ふたりの幼馴染みの女が戦場にいて
ひとりは暴行された後に殺され
もうひとりは
大事にされて連れて行かれ
敵国で妻に迎えられ
裕福な奥方に納まったという実話を
さっき
読み終えたばかり

奥方になった女は十人並みの顔立ちだったが
殺された女は
絶世の美女だったという



しあわせ



ぱらぱらめくって
面白そうだとわかっていて
けれど
まだちゃんと読んでいない本が
身のまわりに
ワンサと転がっている
しあわせ



たったそれだけの理由で



みかんも
いよかんも
ぽんかんも好きだけど
でこぽんというのは
特に大好きで
あのみずみずしさは
天国にも
ひょっとしたら
ないかもしれない
と思う

だから逝かないで
いるんだ
まだ

たったそれだけの
理由で

逝ったところで
天国じゃ
ないかもしれないけどね
逝き先



しばらく聴かなかったホロヴィッツ




しばらく聴かなかった
ホロヴィッツ

など
見つけ

ちょっと
掛けてみる

大曲にばかり惹かれて
いい加減に
むかしは聴き飛ばした
ピアノ小曲集など
じつはどれも
よすぎるほど
のものだったと
ひとりで
お茶も淹れず
聴いていて  わかる
今になって

ショパンの「夜想曲」変ホ長調が
1957年のホロヴィッツにかかると
こんなに軽い
得も言われぬ快演に
なるのかと
溜息が出る
期待せずにかけた
無言歌の「春の歌」にも**
思わず息を飲む

蘇ったようだ、
なにか、からだの奥の
皮膚の
乾き過ぎていた一枚が

聴いちゃおうかな
次は
「プリペアド・ピアノのためのソナタとインタリュード」***
あたり
ジョン・ケージの
   (もちろん、弾いてるの、ホロヴィッツじゃなくって)
これも
    ずいぶん
   ひさしぶりに



* Frédéric Chopin, Nocturne in E-Flat, Op.9-2, performed by Horowitz, 1957, Carnegie Hall.
**Mendelssohn, Spring Song from Songs without words, performed by Horowitz, 1946, Newyork Town Hall.
***John Cage, Sonatas and Interludes for Prepared Piano