2017年5月28日日曜日

体を四季そのものとし切って



是のただよへる国…
『古事記』

この国小国にて人の心ばせ愚かなるによりて、
もろもろの事を昔に違へじとするにてこそ侍れ。
鴨長明『無名抄』

たゞ過ぎに過ぐる物。
帆をあげたる舟、人の齢、春夏秋冬。
清少納言『枕草子』
  

定かなものはなにもないから
平成の平家の興亡にも
特に驚きはない
源氏が討伐に来たところで
北条がすぐに乗っ取り
その後はまた
ぐずぐずになっていくだろう
此処はそういう小国で
数千年やそこらで
この性向は変わるものではない
古事記に記された神々も
現実に湯戻しして読んでみれば
田舎集落どうしの泥臭い
縄張り争いに過ぎず
直視する目には
情けない醜さと卑しさの
貌と体つきの取組みあいの連続
あゝあほらしい群島
せいぜい数十年の地上滞在なら
体を四季そのものとし切って
散る花びらのように
夏草の夢跡のように
芒の枯れ穂のように
時雨を受ける森のように
たゞ過ぎに過ぎていくだけで
よいものを



まこチャン?


  
(言葉も霊で…

空間に、語らせてみようか、…、花の

  過去、と、例えば思ってみる
  しかし、過去が過去ならば、現在、過去であるのだから
  その過去は現在による過去で、現在を注入されてのみ、在る…

 時間でない意識は在るのか…

  「もはや私は時間でしかない」(シャトーブリアン『ランセ伝』)
   
  過去を注入された、過去による現在。
  それはありきたりに思える。
  現在の当然のありかたに思える。
  しかし、本当か?

語りに、空間させてみようか、…、那覇の

空間と呼ぶべきか
場と呼ぶべきか

   、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
   、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

     文字は文字以外のものに使役させ切るには不自由な道具
     使役させるのを諦めれば羅針盤とも予言とも真理ともなる

  去っていくなら、犬か…
  蜥蜴か…
  
  霊界では人は各人太陽を後頭部に持っているという
  (腕の細胞のいくつかは敏感に指令を受けとる
  (それを甘受して書く
  (痺れのような受けとり 上質なビニールの神経 音も立てず
  (水のようだ、よいものは皆 疲れをすぐに消滅させる 覚醒は
  (いつも眠りそのもの…

醒めているのは眠っていること
醒めているから眠っているのね
醒めているほど眠っているのさ

音が聞こえているでしょ?
なに?
音?

なにか見えているでしょ?
見えている
なに?
見えているって?



感情も
好みの傾きもない
意識の瞬間
やわらかい水草の先端の葉のうすみどりに
あなたは成ってみたいと
たぶん思った
それがはじまりの瞬間

もちろん
はじまりの瞬間が
なにより大事というわけではない
忘れてしまっていい
はじまりなんか

いま
ここ
大事なのはそれら
なぁんて
そんな安易な済ませ方は
もちろん
ダメ

通俗ブッダになっちゃうよ

いま
ここ
ともに
いまでもない
ここでもない
遠方から来た概念とことば
概念あり遠方より来る
それだけで
いまここ主義は破綻

仏に会えば仏を殺せ
禅者はさすがだ
纏いついて来続ける概念の拘束衣を振り解くのが問題だと知ってい

解決はない
万能キーはない

いまここ
ダメ

まこ
ぐらいなら
どう?

まこ主義

まこチャン?



言うことなど なにもないまゝ


  
言うことなど
なにも
ないまゝ
だが

文字だけ
並べるのが
そう
つまらなくはない

風の音がする

ずっと
している

人生など
まったく考えなかった週

じぶんというものも
ほとんど
考えなかった週

軸を失うとか
中心を逸れるとか
よくないことのようにも言われるが
そうかな

軸や中心と思い込んできたもの
思い込んできたこと
そんなものも
だんだん
剥がれていく
それだけのことじゃない?

風の音がしている

吹かれ
吹かれて
どこまでも伸びていく
透明な細い紐のようなもの…

見える気もする

(見えないんだけどね

見える気もする

(見えないんだけどね

言うことなど
なにも
ないまゝ




けっこう癖になるような微妙な快感みたいなものも


  
健康診断で採血された時
「ちょっとチクッとしますよ
と言われた

看護師さんの常套句かもしれないが
考えてみれば
なんとも
やさしい言葉だと思えた

ところで
今年は
そんな採血の瞬間
いつもとは違う思いが湧いた

チクッ
っていう
それは
どういうことなんだろう

痛いということなのか
なにかが
細く細く当たったようなことなのか

そもそも
痛い
っていうのは
本当はどういう感覚だったろう

血管注射の針が
肌を突きぬけ
血管に刺さっていく感覚って
どういうものだったろう

それは
痛いのか
痛いのとは
ちょっと違うのか

チクッ
っていうのは
痛いのとは
別ものだったのか

こんなことを思ってしまって
なんだか
うずうず好奇心が
湧いてきてしまった

だから
注射針を刺される前から
なんだか
期待してしまったのだ

とりあえずの結論なんだけど
採血の時に注射針が刺さってくるのは
痛いのとは違う
チクッ
っていうのとも
ちょっと違う

子どもの頃から
何度も何度も注射針を刺されてきたくせに
なんと怠惰なことであったか
痛いとか
チクッとか
あたり前のように
そんな言語表現で済ましてきてしまい
しかも
けっこう納得してきてしまっていたと
じぶんのいい加減さに
けっこう驚いてしまった

痛いとか
チクッとか
そんなものでないどころか
ずいぶん集中してこの感覚に向き合ってみた結果
じつは
けっこう癖になるような
微妙な快感みたいなものもあると
発見してしまったのだ




2017年5月22日月曜日

映像がぼんやり薄らいで消えていく時のように



八年ぶりに引越してみたが
今度の引越しは違った
ずいぶん
感慨深かった
引越しは生前の別れというものを
さまざまなものとの間でちょっと大がかりにやるものなので
いつも感慨深いところがあるが
歳を取ってきたということもあるだろうか

中村真一郎が『四季』でこんなことを書いている
「引越しが近くなると、
「今まで住んでいた家の部屋部屋が
「急に自分に疎遠に見えてくる*

次に住むところが決まってから
家具の配置のために寸法を測りに行ったり
新しい生活の概要を想像するために
まだなにもない新居にひとりで仕事の後の夜に赴いて
電気さえ来ていないものだから
スマートフォンのライトを点けて照らしながら
亡霊のように部屋から部屋へ
台所からヴェランダへ
というふうに歩きまわったり
ボーッと立ち止まったりしていた

小一時間そうして過ごしてから
旧居に戻って来て
夜の食事づくりを始めたりする
ふと旧居の部屋部屋を見まわし直してみると
映像がぼんやり薄らいで消えていく時のように
壁も襖もドアもソファーも
なにもかもが薄くなっていくのが感じられた
それがはっきり感じられた
中村真一郎は「疎遠に見えてくる」と書いているが
現実感がすっかり失せて
たゞたゞぼーっと霞んでいくのだった

それがあまりにはっきり感じられたので
今まで自分にとって現実だったこの“現実”も
一週間後の消滅を宿命づけられて
もう霧散していく動きを取り始めたのだなと思った
慣れ親しんできた光景がぼんやりしていくことが
あまりにはっきり鮮明に感じられることの不思議さや異様さに
物質界というもののはかなさや紙一重さのようなものを
いつにも増してつよく感じさせられた
津波で沿岸の光景も生活風景も一変してしまうようなものか
大きな変化は少し前から風景の中に染み込んで来ているものなのか

旧居に暮らしている間には
いろいろな大きな変化や死や消滅が周囲で起こり
生のこれまでの時期よりも物事の終焉を思わされたものだったが
とても好んでずいぶん慣れ親しんだ環境を急に離れることになったのは
じぶんにとっては比喩でなしにひとつの死の経験のようだった

ユキヤナギの白い花々が
まっ先に春を告げるさまが居間から見られた後
桜の木々に囲まれた旧居は
どこの名所にも負けぬほどの花見場所となり
すぐ裏の隅田川沿いには延々と満開の桜が堤に並んで
早朝も夕方も昼も時間があれば花見に歩きに出た
江戸から荷風を経て伝わってくる隅田川の風情に
こんなに近く接して生きられるのはちょっと贅沢な喜びだった
桜が過ぎれば居間からは初夏のみどりの輝きが見える時期に入り
秋には秋でそれらのみどりが紅葉し黄葉する
目の前に草原のある一階なので秋の虫たちが深更を歌い続ける
居間のテーブルに着いてお茶を飲んでいるだけで
四季のこんな草木の情景がいつも目に入ってくる家を離れるのは
未来にどんなよいことが待っていようとも
やはりひとつの死のようなものに感じられた
素朴なこんなよいみどりの風景を手放していかねばならないのは苦しく
よいものや好きなものを手放していくのはやはり死であって
(あゝこの経験も大いなる最期の死の時のための修行なのか
誰もが少しずつひとつずつ死んでいく経験をさせられるように
こんなに好きだったこの住まいをふいに離れねばならないというの
そんなことを表現をあれこれ替えて思ってみながら
薄くぼんやりした映像になってしまっている
壁や襖やドアやソファーや
部屋のなにもかもを見ながら
(不思議なことだ
なによりも堅固な存在物だということになっているこれら物質たち
(品物たちが本当にこんなに希薄になってしまっている…
と瞬きし直しては見直し見直し
(どうやら
(じぶんの魂とやらが
(もう先に次の時期へと飛び行ってしまっていて
(いまここにあるはずの物質たちの世界を
(切り落とした髪の毛や爪のように
(用を終えて剥がれ落ちた瘡蓋のように
(見向きもせずに後に残して行ってしまったのだな
物質の側にあるつねに遅れがちな肉体に縛りつけられている意識は
夜の食事づくりに気持ちを戻しながら
たましいに置き棄てられた寂しさにしんみり感じ入りながら
(とするとこういうことか
(同じわたし自身であるかのようでも
(いまここにいるわたしは捨てられていくのか
(ひとりもうたましいは逝ってしまっているのだし
(もうこちらを振り返ることもないようなのだし
そう思いながら
初夏のさわやかな一個の死となって
いつまでも旧居に残ろうと決意したかのようだった



*中村真一郎『四季』(新潮社、1975p.17



2017年5月21日日曜日

心穏やかである


  
コミュニケーションをとうに諦めた相手なら
逆に
心穏やかである

同じ人間どうしとさえ
もう
思わない
じぶんこそが人間だ
じぶんこそが人間らしい振舞いをしていると
相手が固執するのなら
こちらは
たぶん人間ではないかもしれない
人間と呼ぶほどの生き物ではないのかもしれませんね
などと言ってまで
あえて
退いて見せる

心穏やかである

相手がこちらを理解するということも
理解する努力をしてくれるかもしれないということも
ただの1パーセントさえないと
もう
わかっている
だからなんの期待もしない

心穏やかである

相手とおなじ望みを持ったり
おなじやり方をしようとしたり
おなじ感じ方や考え方をすることも
なにがあろうと
けっして起こり得ないと
もう
わかっている

心穏やかである

もっとも遠い
関わりのまったくない
はじめて出会った人に対するように
必要な際には
ていねいな言葉で
世の中で誰にも受け入れられやすい
わかりやすい理屈を
むりなく
敷いていくだけの話し方をする

心穏やかである

感情のひとつひとつ
見方のほんのちょっとの角度のどれも
また
人の言動をつくり出す価値観の
どれひとつを取っても
互いに
わずかに重なり合うことさえないのが
もう
わかっている
だから
相手に心を乗り出させることもないし
もう
力をこめて
主張しようとすることもない

心穏やかである

だいたいの場合は
特に愛想よく振舞うほどのこともない
仕事上の誰かれに向けるような
ニュートラルな表情を
その相手には向け
あえて
さらに表情を作る際には
大きなホテルで
偶然エレベーターに乗りあわせた
他の階の客に向けるような
やや微笑みに傾いた柔和な顔を向け
必要があれば
その顔をずっと続け
さらに無責任に
笑顔度を増すこともできるだけの注意を
脳にも
顔の筋肉にも忍ばせてはおく

心穏やかである




いいじゃない?これだけで


どうやら
いま生きているらしく
これが
はたして
生きていると呼ぶべきほどのものかどうか
それはともかくとして
これはこれで
生きているといううちの
どうやら
ひとつみたいだと思い直してみれば

いいじゃない?
これだけで
いま生きているみたいだという
この感覚だけで

これだけを
最期に噛みしめるように
ギュッとつかみ直すように
息絶えていった
故人たちを見てきた
いま
となっては



そんな気ないから


詩は
必死に詩人と見られたい人たちの専有物
あたし
そんな気ないから
詩なんて
いちども書いたことない

人間は
必死に人間と見られたい人たちの専有物
あたし
そんな気ないから
人間なんて
いちどもなったことない