2024年8月29日木曜日

「ふ、ふ、不条理なァ~!」


 

 

言っているいる お持ちなさいな

いつでも夢を いつでも夢を

佐伯孝夫 『いつでも夢を』(1962)

 

 

 


 

どの媒体のニュースであっても

ふたつの選挙に関する記事や映像が踊るようになっており

目の前にちらつかされて

見せつけられるようになっている

 

ところが

どちらの選挙も

投票権を持っていない

という点でわたしには関係がないし

どちらの選挙も

結果は近未来のわたしの生活に大いに影響がある

という点でわたしには関係がある

 

アメリカ大統領選挙

自由民主党総裁選挙

 

わたしひとりどころか

ほとんどの日本人には投票権がなく

(自民党員などもちろん日本人とは呼べまい)

つまり関係しようがなく

したがって関係なく

しかしながら

生活条件にも生活環境にも収入にも影響が生じるであろう点で

関係がなくて関係がある

なんとも奇異な

一方的な神託のような

宿命劇といえる

ギリシア悲劇お得意のシチュエーション設定だが

そろそろ歴史的にニッポン悲劇創作の時代かもしれない

出でよ!悲劇詩人たちよ!

 

第二次大戦後の文学者たちや哲学者たちなら

当時の流行語で

「不条理!」

と叫んだことだろう

「不条理!」

などと叫んだところで

結局なにも解決しなかったのは

あの頃から何十年も流れた現代のさまを見れば明白だから

もちろん

「不条理!」

などと口走ったりしないのが正しいには違いない


だいたい

「不条理」という言葉については

元清派派歌手を脱がせ

ロマンポルノ史上最高の動員を記録した水原ゆう紀主演の

1979年の日活ロマンポルノ『天使のはらわた 赤い教室』の中で

曽根中生監督が

蟹江敬三に

「ふ、ふ、不条理なァ~!」

と叫ばせた時点で

表層的でしかなかった実存主義ブームなるものに

見事な批判的終幕を引いてしまっている

水原ゆう紀の演技や肉体よりも

蟹江敬三の

「ふ、ふ、不条理なァ~!」

の印象が

あまりに滑稽で鮮烈で強くて

併映された

西村昭五郎監督の『宇能鴻一郎の濡れて開く』のほうは

ほとんど記憶に残らなかったほどだ

 

なにも

『天使のはらわた 赤い教室』のお手柄だけというわけでもないだろうが

いまでは「不条理」などという言葉は

清廉とか

潔白とか

清貧とか

仁義とか

もろもろの懐かしい言葉のように忘れさられているので

「不条理!」

などと叫んでみたところで

「サンドウィッチマン」の富澤たけしのネタのように

「ちょっと何言ってるか分かんない」

と返されてしまうだろうし

それに対する伊達みきおのように

「なんで何言ってるか分かんねぇんだよ!

と言い立てたところで

いよいよ

ポカ~ンとされてしまうだろうから

最初から

「不条理!」

と叫んですぐに

松鶴家千とせのネタを借りて

「わかるかなぁ?

わかんねぇだろうナ」

と付けておいたほうが

むしろ潔い

というものだろう

 

松鶴家千とせも

2022年に亡くなってしまったから

彼の代表ネタを

供養に

ここで見直しておこう

 

オレがむかし夕焼けだったころ
弟は小やけだった
父さんが胸やけで 母さんが霜やけだった
わかんねぇだろうナ
信じられないだろうが
人間やる前 夕焼けやってた
ワカルカナ?

オレがむかし夕焼けだったころ
オレを見た子供が
「お父ちゃん!お空みて
 お空が真赤に
   燃えてるよ」
そしたらオヤジが
「大丈夫だよ
 いくら燃えたって
 火災保険に
  入ってンだから」
わかんねぇだろうナ

 

なんの関係も持ちようがないのに

関係がリボ払いでおっかぶさってくる

アメリカ大統領選挙のニュースに触れるたび

イラク侵略などの数えきれない悪行を行ない続け

日米合同委員会で日本をなおも属国化しているアメリカで

だれが大統領になろうが

だいたひかるのように

「どーでもいーいですよー」

と呟いてしまうし

さらには

小島よしおのネタのように

「そんなの関係ねぇ。オッパッピー」

と言い捨てたくもなってしまう

 

とはいえ

焼跡戦後派ならぬ

三井不動産的開発ばかりされまくりの令和植民地属国派ながらも

すこしは

夢を

いつでも

夢を

と思いながら

夕焼けを見つめて

替え歌なんか

してしまっている

むなしく

むなしく

 

 

トランプがむかし夕焼けだったころ
カマラは小やけだった
ケネディーが胸やけで オバマが霜やけだった
わかんねぇだろうナ
信じられないだろうが
人間やる前 みんなヤケだった

ワカルカナ?

 アメリカがむかし夕焼けだったころ
 アメリカを見た子供が
 「お父ちゃん!お空みて
 お空が真赤に
  燃えてるよ」
 そしたらオヤジが
 「大丈夫だよ
  いくら燃えたって
  どんどん戦争をでっち上げ続けて
   あぶく銭儲け続けンだから」
 わかんねぇだろうナ

 

 





2024年8月27日火曜日

めちゃ めっちゃ


 

 

あちこちで

「めっちゃ~」とか

「めちゃ~」いう言葉が

耳に入る

 

形容詞を飾っている場合が多いから

副詞なのだろう

「めちゃくちゃ」という言葉の

略されたところから

来たのか?

 

ひところ昔には

「超~」と言われていたり

それより昔には

「すごく~」とか

「すっごく~」とか

言われていて

品のあるお姉さまや奥さまなら

「とても~」と言っていたのが

昨今ではすっかり

「めっちゃ~」とか

「めちゃ~」に

占領され切った感じがある

 

コミックサイトの「めちゃコミック」となると

名詞を飾っているから

すでに形容詞としての用法も

獲得しているのか?

 

ことさら

きたない感じのする言葉

とまでは思わないが

若い世代のある種のひとたちだけの空間で

通用する

はしゃいだ雰囲気を出す略語を

その空間に属さない者や

属したくない者にまで

押しつけられてくるようで

めちゃ不快感がある

めっちゃムカつく

 

世代の違う人たちのことばづかいを

あれこれ

批難したくはないが

「めっちゃ~」とか

「めちゃ~」は

多用され過ぎると

日本語の花心がめちゃ侵蝕され

もう元には戻れなくなるような

激ヤバな気がする

 

そう

「ヤバい」という言葉も

「ウザい」という言葉も

Si je me souviens bien

(「ぼくの記憶が確かならば」:ランボー『地獄の季節』冒頭)

1980年代になって

急速にひろがった言葉だった

 

「ヤバい」は

「ヤベ」にすぐに略され

小中生が使っているのを聞くたびに

小学生の頃の友だちのひとりの

矢部くんのことを思い出した

矢部くんは片側の目の下にちょっと線があって

中高年にはよく見られる雰囲気が

小学生のくせにあって

なんとなくジャン・ギャバンしていた

 

「ウザい」は

ひろまり出した頃

埼玉のど田舎の土着語だという説があって

どうりでナァ

きれいじゃない言葉だよナァ

などと

使いたくない派は言っていたが

その後は

埼玉のど田舎の土着語らしく

地道に日本語に寄生してべったりと定着し

今では

「ウザ」という

言い捨て感バッチシの

略語もある

 

「ダサい」や

それが音便化した「ダッせ」や

「ダッさ」や

「ダサ」なども

ひろまり出したのは

同じ頃だったか?

たぶん

CIAが企てた

日本語劣化計画の一環だったのではないか?

と今は思ったりする

 

「ヤバい」

「ウザい」

「ヤベ」

「ウザ」

「ダサい」

「ダッせ」

「ダッさ」

「ダサ」

「めっちゃ~」

「めちゃ~」

などと並べてみると

昭和末期から平成令和にかけての

なんともオウツクシく

ダッサい

めちゃ日本語史の一端が垣間見られる

 

世にしたがへば身くるし

したがはねば狂せるに似たり。

いづれのところをしめて、

いかなるわざをしてか、

しばしも此身をやどし、

たまゆらも、

こころをやすむべき。

『方丈記』

 

鴨長明が記した「世」には

言葉のことも

含まれていたか?

 

世にしたがへばめちゃ身くるしくしてウザ

したがはねばめちゃ狂せるに似てヤベ。

いづれのところをしめて、

めちゃいかなるわざをしてか、

めちゃしばしも此身をやどし、

めちゃたまゆらも、

こころをめちゃやすむべき。

『方丈記』

 

 




愛と口にしない人として

 

 

 

ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ

   宮澤賢治 『雨ニモマケズ』

 

 

 

 

なにかというと

という人たちがいる

 

そういう人たちの界隈がある

 

が大事なのだという

 

こそがすべて

とまで

いう

 

そうかと思うと

とは

なにか?

いつも考えている

 

そうして

むずかしい議論を

開陳してくれさえする

立派な哲学大系のよう話を

諄々と

してくれる

 

そういう話では

「とはいうものの…」

とか

「しかしながら…」

とか

「注意しておかなければならないのは…」

とか

「事はそう単純ではない…」

とか

ひっくり返しや

つけ加えを継ぎ足すことばとともに

無限に尾ひれがつく

 

これでは

アリストテレスとか

トマス・アクイナスとか

カントとか

ヘーゲルとか

ハイデガーとか

マルクスなんかを

すらすら読んで

勘どころをさっさと

口頭でまとめられるような人でないと

永遠に

とはなんであるか

わからないだろうな

と思わされる

 

わたしは

人類のなかで

もっとも

と口にしない人

 

とはなにか

ぜんぜん

わからないし

だいたい

ということばは

必要ない

と思っている

 

大事にする

やさしくする

かわいがる

ていねいにする

気にし続ける

困っているようなら手を差し伸べる

傷ついているなら助けてやろうとする

などの

生活のなかで実感のつかみやすい言い方で

たいていの

は翻訳できると思う

 

これらに翻訳できず

実感がつかみづらい場合

は危険だとも思う

 

なにかというと

というのに

じぶんの視野に入るところで

じぶんの耳に聞こえてくることとして

どこかの誰かが

小突きまわされて困っていたり

病苦に苛まれていたり

傷つけられたり

殺されそうになっていたりするのを

平気で

あるいは

しかたないといって

どうにもならないといって

放っておく人たちの

とはなにか?

よく思う

 

人類のなかで

もっとも

と口にしない人

わたし

なら

この世のどんなことも

平気で

あるいは

しかたないといって

どうにもならないといって

放っておける

 

が大事なのだ

とも

いわないし

こそがすべて

とも

いわないし

とは

なにか?

とも考えずに

実感しやすいやりかたで

大事にする

やさしくする

かわいがる

ていねいにする

気にし続ける

困っているようなら手を差し伸べる

傷ついているなら助けてやろうとする

などのことを

したりは

する

 

と口にしない人

として

あたりまえに

 





「すべて夢だ」

 

 

修行僧たちよ。修行僧というものは、出て行く時も戻る時もよく気をつける。前を見る時も後ろを見る時もよく気をつける。腕を屈する時ものばす時も気をつける。大衣や衣鉢をとる時もよく気をつける。食べ、飲み、味わう時もよく気をつける。大小便をする時も気をつける。行き、住し、座し、眠り、目覚め、語り、沈黙する時もよく気をつける。修行僧たちよ。修行僧はこのようによく念じて、気をつけていよ。これがおまえたちに説くわたしたちの教えである。

大パリニッバーナ経

MAHAPARINIBBANA-SUTTANTA

 

 

 

 

いつだったか

今年の夏のとある夜のこと

歩きながらスーパーマーケットから帰ってくる時に

「生きていることはすべて夢だ」

という強い理解が来た

 

夢のようだ

というのではなく

「夢だ」

という確信だった

 

生きていること

記してみたが

世界であるとか

じぶんであるとか

人生であるとか

この世であるとか

他の言い方をしてもかまわない

 

ふつうの意識状態で感知され把握される

いわゆる

外界

というものも

それを感知し把握する側の

意識とか

自我とか

内面とか

言えそうなものも

ひっくるめて

すべてが

「夢だ」

との断言が来た

 

ながいこと

生きていることは夢のようだ

夢みたいなところがある

という形容に留まってきていたので

なんの迷いもなく

「生きていることはすべて夢だ」

と確信し

断言する発話者が

じぶんの内部に出現したことは

新鮮だった

 

日が暮れても

なおも暑い

夏の夜の道々を歩き続けながら

「生きていることはすべて夢だ」

などとは

われながら

ずいぶん思い切った断定をするようになったものだ

などと驚いてみたり

そこまで断言しなくてもいいのではないか

などと考え直そうとしてみたり

思念は縷々と続いたが

そんな思念の流れもすべて

「夢だ」

との確信がすでにあった

 

あちこちに立っていて

闇のなかに光っている飲料自動販売機の

それこそ

悪い夢を見てでもいるかのような

チープな

どこか白粉じみた

昔の娼婦街の覗き窓にも通じるような色あいが見えるのも

「夢だ」

もちろん確信された