あらゆる茶もコーヒーもやめて
ふと
水だけを飲むようになった夏の終わり、
(日本語には「晩夏」という美しい言葉があって
これはコレット(Colette)の『青い麦(Le Blé en herbe)』の
主人公のひとり
15歳の娘ヴァンカ(Vinca)を思い出させる
v音のない日本語はbとvを区別しないので
bankaと発音すべき「晩夏」の最初の音を
下唇と上の前歯から摩擦音を出してvankaと言っても
誰も聞きとがめない)
夏と衰えをともにしてでもいるのだろうか、カゲロウが
なんと三匹もクサカゲロウが
弱々しく
書庫の奥の書見台まで
飛んでくる
という
より
漂着してきた
とでもいう
様子で宙に現われ、すぐに、コップの縁に
なんと三匹ともいっしょに、止まった
彼らの美しいやわらかなみどり色を見ながら、
夏は終わるといっても、おまえたちの色はとこしえの春
とつぶやくと、水の入っていたコップは極地のどこかにありそうな氷山に
一瞬にかわって私はふいに冬の人
クサカゲロウも失せて
氷山のまわりに漂うあざやかな黄緑の雲であった。
季節も冬なのだろうか、私が冬の人であるからといって、氷山が
書庫だったはずの場所に今は聳えているからといって?
そうして私はひとりではなく
姿も見えないのにはっきりと居るのがわかるヴァンカが
ぴったりと背に貼りついている
「ヴァンカ、後ろを向いているのだね」
「ヴァンカ、こちら向きにはなる気はないのだね」
「ヴァンカ、私は冬の人だけれど寒くはないかい?」
どうでもいいようなことを
こんなふうに
私は
姿の見えない背後のヴァンカに言って
とうの昔に生き別れになってしまっている人生嬢の
特徴のある素振りを思い出した
大事にしても
追っていっても顔をわずかに逸らすのに
こちらがなにかに集中すると躍起になって腕に絡みついてくる
人生嬢
そんな人生嬢とミネソタの
ミネアポリスから
ルイジアナのニューオーリンズまで
ゆるゆると
セルベルト・Kから借りた古いポルシェ356プレAで
走っていったことがあった
どこだったか途中の街のガソリンスタンドの
脇のモーテルで
クレメンタインという少女からスミレの小さな花束を貰って
夕焼けの中に花火が豪勢に上がり
もちろん
ジョン・フォード(John Ford)の
My Darling Clementine (1946)の
映画史上最も控えめで最も美しい最後のシーンを思い出しながら
いっそのこと此処で婚約をしよう!
などとは少女に告げずに
これ以上ないほど静かに優雅に紳士的に別れたものだった
https://www.youtube.com/watch?v=h6xSIT2S2Ms
それから長いこと経って
冬の人
私は
冬のパリの市場の果物商の前に
ある夕暮れ
大きなトートバックをふたつも持って立っていた
冬のパリでビタミン摂取を考えれば
尖った形の葉の付いたコルシカ産のクレマンティーヌは欠かせない
札に書かれたclémentineという綴りを見ながら
「ああ、クレメンタイン!」
と私は洩した
クレマンティーヌではなくスミレの花束をくれたあの少女!
おそらく生涯で最も運命的な出会いだったはずのあの子!
私はクレマンティーヌの10入りの網袋を買い
さらにリンゴを4つ買い
レタスやシュー・フリゼやシコレを買い
シュー・ド・ブリュッセルも買って
ずいぶん重くなったトートバックを左腕に掛けながら金を払い
「クレマンティーヌは英語だとあのクレメンタインだね。
有名な映画の音楽がある」
と戯れ言を店員に言うと
「でも、柑橘類二種を掛けあわせて作ったところは
クレマンという修道士の農場だ。
男の名だよな」
と返して来た
知っている
マンダリンの花とオレンジの花粉の自然交配から
クレマンティーヌは生まれたのだ
発見したのは
植物学者のルイ=シャルル・トラビュ(Louis Charles Trabut)
クレマン(Clément)という修道士の農場で
1892年に
この交配種を発見したのだ
ルイ=シャルル・トラビュは
この品種のことを
1902年
園芸専門誌にに発表
その後
ドン・フィリップ・スミデイ(Don Philippe Semidei)が
コルシカ東岸のフィガレト(Figareto)に植え
葉付きで売られるコルシカ産クレマンティーヌが
フランスで売られるようになっていく
冬の人
私は
こんな雑学を思い出しながら
そろそろ店仕舞いにかかる市場を離れ
マンダリンの花と
オレンジの花粉との
自然交配から生まれたクレマンティーヌ
ということを
思った
あの少女クレメンタインは交配の末の最後のかたち
冬の人
私の
クレメンタインとの婚約はあらかじめ
永遠に禁じられていた!
と
遅ればせながら
気づいた
気づいてから
もう
数十年は経ていて
冬の人
でも
もうなくなってしまっている
私
たぶん
水だけをうるわしく
飲む