2026年9月6日日曜日

たぶん水だけをうるわしく飲む


 

 

 

あらゆる茶もコーヒーもやめて

ふと

水だけを飲むようになった夏の終わり、

 

(日本語には「晩夏」という美しい言葉があって

これはコレット(Colette)の『青い麦(Le Blé en herbe)』の

主人公のひとり

15歳の娘ヴァンカ(Vinca)を思い出させる

v音のない日本語はbvを区別しないので

ankaと発音すべき「晩夏」の最初の音を

下唇と上の前歯から摩擦音を出してvankaと言っても

誰も聞きとがめない)

 

夏と衰えをともにしてでもいるのだろうか、カゲロウが

なんと三匹もクサカゲロウが

弱々しく

書庫の奥の書見台まで

飛んでくる

という

より

漂着してきた

とでもいう

様子で宙に現われ、すぐに、コップの縁に

なんと三匹ともいっしょに、止まった

 

彼らの美しいやわらかなみどり色を見ながら、

夏は終わるといっても、おまえたちの色はとこしえの春

とつぶやくと、水の入っていたコップは極地のどこかにありそうな氷山に

一瞬にかわって私はふいに冬の人

 

クサカゲロウも失せて

氷山のまわりに漂うあざやかな黄緑の雲であった。

 

季節も冬なのだろうか、私が冬の人であるからといって、氷山が

書庫だったはずの場所に今は聳えているからといって?

 

そうして私はひとりではなく

姿も見えないのにはっきりと居るのがわかるヴァンカが

ぴったりと背に貼りついている

 

「ヴァンカ、後ろを向いているのだね」

「ヴァンカ、こちら向きにはなる気はないのだね」

「ヴァンカ、私は冬の人だけれど寒くはないかい?」

 

どうでもいいようなことを

こんなふうに

私は

姿の見えない背後のヴァンカに言って

とうの昔に生き別れになってしまっている人生嬢の

特徴のある素振りを思い出した

大事にしても

追っていっても顔をわずかに逸らすのに

こちらがなにかに集中すると躍起になって腕に絡みついてくる

人生嬢

 

そんな人生嬢とミネソタの

ミネアポリスから

ルイジアナのニューオーリンズまで

ゆるゆると

セルベルト・Kから借りた古いポルシェ356プレA

走っていったことがあった

 

どこだったか途中の街のガソリンスタンドの

脇のモーテルで

クレメンタインという少女からスミレの小さな花束を貰って

夕焼けの中に花火が豪勢に上がり

もちろん

ジョン・フォード(John Ford)

My Darling Clementine (1946)

映画史上最も控えめで最も美しい最後のシーンを思い出しながら

いっそのこと此処で婚約をしよう!

などとは少女に告げずに

これ以上ないほど静かに優雅に紳士的に別れたものだった

https://www.youtube.com/watch?v=h6xSIT2S2Ms

 

それから長いこと経って

冬の人

私は

冬のパリの市場の果物商の前に

ある夕暮れ

大きなトートバックをふたつも持って立っていた

冬のパリでビタミン摂取を考えれば

尖った形の葉の付いたコルシカ産のクレマンティーヌは欠かせない

札に書かれたclémentineという綴りを見ながら

「ああ、クレメンタイン!」

と私は洩した

クレマンティーヌではなくスミレの花束をくれたあの少女!

おそらく生涯で最も運命的な出会いだったはずのあの子!

 

私はクレマンティーヌの10入りの網袋を買い

さらにリンゴを4つ買い

レタスやシュー・フリゼやシコレを買い

シュー・ド・ブリュッセルも買って

ずいぶん重くなったトートバックを左腕に掛けながら金を払い

「クレマンティーヌは英語だとあのクレメンタインだね。

有名な映画の音楽がある」

と戯れ言を店員に言うと

「でも、柑橘類二種を掛けあわせて作ったところは

クレマンという修道士の農場だ。

男の名だよな」

と返して来た

 

知っている

 

マンダリンの花とオレンジの花粉の自然交配から

クレマンティーヌは生まれたのだ

発見したのは

植物学者のルイ=シャルル・トラビュ(Louis Charles Trabut

クレマン(Clément)という修道士の農場で

1892年に

この交配種を発見したのだ

 

ルイ=シャルル・トラビュは

この品種のことを

1902

園芸専門誌にに発表

 

その後

ドン・フィリップ・スミデイ(Don Philippe Semidei)が

コルシカ東岸のフィガレト(Figareto)に植え

葉付きで売られるコルシカ産クレマンティーヌが

フランスで売られるようになっていく

 

冬の人

私は

こんな雑学を思い出しながら

そろそろ店仕舞いにかかる市場を離れ

マンダリンの花と

オレンジの花粉との

自然交配から生まれたクレマンティーヌ

ということを

思った

 

あの少女クレメンタインは交配の末の最後のかたち

 

冬の人

私の

クレメンタインとの婚約はあらかじめ

永遠に禁じられていた!

遅ればせながら

気づいた

 

気づいてから

もう

数十年は経ていて

冬の人

でも

もうなくなってしまっている

 

たぶん

水だけをうるわしく

飲む

 

 


2026年9月4日金曜日

美しくも崩壊的なルバ茶

 

 

 

夢が私を夢見ていた頃

玄武岩でできた小さな城(たしか名はンドル城)は

ムラサキツユクサによく似た(ムラサキツユクサと断言してしまってもよいのだが、わずかに惑いがあるので断言はしないでおく。忘都シセームズの住人ででもあれば必ずすぐに断言してしまうだろう)草の葉の先端部に数週間ほど居住するのを望んで、事実数日ほど住んでみたはずだが、どんな理由からか其処を離れ、宙をしばらく漂ったのちにベツレー湾から船で大海へ出て行った。

 

これも噂の連鎖の過程を耳にすることで私が聞き及んだに過ぎないことであり、今さら(いや、遠い過去の時点においてさえ)真偽を確認しようもない。

 

“美しくも崩壊的なルバ茶”を啜りながら私は今これを記しているのだが、この茶の顕著な効能は、頭に(ということはすなわち意識に)浮かぶ固有名詞を映像化や動画化どころか立体化するところにあり、さらには普通名詞や抽象概念をも実体化する力さえある。

もっとも普通名詞や抽象概念の実体化にあたっては、こちらの意識が持つ能力の度合いが大きく作用するらしく、少なくとも私の場合においては、私自身の意思や意向によってこうした実体化を行い得た記憶はない。ひょっとしたら、あれがそうだったか……という経験はあり、あるATMの小さな部屋に入った瞬間に、昔親しかった友人の大きな木造建築の居間に立っていたことがある。その居間は立派な木張りの壁や床や天井が素晴らしかったものの、なぜか天井の四隅には古い汲み取り式便器が逆さまに貼りついていて、便が落ちていくはずの穴が天井の奥へと闇を作っていた。その家の息子であるべき友人の姿はその居間には居らず、かわりにというのでもないが、ピンクのパステルカラーのミニスカートにグリーンとブルーとオレンジがマーブル状になったノースリーブのぴったり身体に貼りついているシャツ姿の若い女が六角形の銀色のお盆を持っていて、ティーカップを其処に載せていたが、それがなんと、やはり、“美しくも崩壊的なルバ茶”なのだった。

 

若い女は

「じつはベツレー湾からの船出の後が大変でした」

と小さな声で言ったので、

「そうでしょうね」

と私は受け、

「まずは、ちょっとお茶を戴こうかな」

と言うと

「はい。もちろんです」

とティーカップを私の手に渡してくれた。

「これ、略して“崩壊的ルバ茶”とも“崩壊ルバ茶”とも呼ぶそうですね」

と聞くと

「そうらしいですが、私は“美しくも崩壊的なルバ茶”と普段は呼んでおりますし、私のまわりでもそのように呼びなわしています」

「“美し崩壊ルバ茶”なんて呼ぶと、ぼく、好みなんだけどなあ」

そう言うと、

「ほほほ」

とだけ、軽い綿のような音で女は笑った。

(私は綿が床に落ちる時の音や、階段を転がり落ちる時の音を聞いたことがある。「ほほほ」に近い音をしっかり立てるのだが、この「ほほほ」音を聴き取れるようにするためには「ほほほ」耳が開いていなくてはならず、これは万人に等しく与えられている能力というわけではない)

 

ちなみに、私に“美しくも崩壊的なルバ茶”を持ってきてくれたこの若い女の髪は、ウイッグだったように思うが、ゴールドと紫と黒とビビッド・イエローかビビッド・レディッシュ・イエローが混ざった色だった。靴の色はホワイト。私は女性の靴の呼び方をよく知らないが、薄いかかとのもので、ミュールスリッパシューズとかサンダルパンプス靴とでも呼ぶべき形体のものと思う。

 

そして、彼女の顔は……

 

なかったのである。

 

あった、ともいえる。もし、どろどろと動き止まぬ大きな水の塊を顔と呼べるのならば。

透明な、人の顔ほどの大きさに丸まった水塊が身体の上に乗っていて、どろどろした水の絶えざる動きがもし表情と呼ばれうるというのならば、まことに表情豊かであった。

 

告白すれば、私は即座にこの顔に恋に落ちたのである。身近で、そして間近で、頻繁に目にしていたいような顔でこれ以上に心奪われる顔に、それまでの私は会ったことがなかったのだ。

 

 


「きのうの夢のつづきを話してくれる」人よ!


 

 

子どもたちに

長いこと

国語を教えて生きていた頃

 

小学生むきの教材に

高田敏子の「忘れもの」が

載っていた

 


忘れもの   高田敏子

 

入道雲にのって
夏休みはいってしまった
「サヨナラ」のかわりに
素晴らしい夕立をふりまいて

 

けさ 空はまっさお
木々の葉の一枚一枚が
あたらしい光とあいさつをかわしている

 

だがキミ! 夏休みよ
もう一度 もどってこないかな
忘れものをとりにさ

 

迷子のセミ
さびしそうな麦わら帽子
それから ぼくの耳に
くっついて離れない波の音

 

 

ボードレールや

ランボーや

ディラン・トマスや

エリオットや

ヴァレリーや

イエーツや

マラルメなどに

没頭沈酔していたので

この詩は

なんと安易なB級詩だろう

と思えた

 

「だがキミ!」の

このカタカナ書きはなんだ!

 

夏休みが終わっても

入道雲は出るし

夕立だって

九月も降り続ける

 

「けさ 空はまっさお

木々の葉の一枚一枚が

あたらしい光とあいさつをかわしている」

というところは

五月頃の初夏の到来にこそ

ふさわしいが

惜しまれる夏休みの終わりには

ちょっとズレている

 

「さびしそうな麦わら帽子」なんて

どうしようもなく俗だし

「ぼくの耳に

くっついて離れない波の音」も

まるで少年読み物の

どこかの

作者がちからを抜いた一節

 

こんなのを書いて

詩でござい!

と言っている連中がいるんだなあ

と断じて

ひどい詩の例のひとつに

「忘れもの」を

入れておいていた

 

けれども

あの時代

この時代

と経ていくうち

ときどき

この詩は思い出される

他の詩よりも

思い出したくなる

 

やさしく

読みやすいというのも

あるだろうし

誰もが子ども時代に思うことが

うまく散らされていて

印象に残る

ため

だろうか?

 

たぶん第一連の

「夏休みはいってしまった」や

第三連の

「夏休みよ もう一度 もどってこないかな」

あたりの

シンプルな小学生的実感が

大人になっても

いや

大人になるほど

懐かしく

強く

響き戻ってくる

から

か?

 

いまでは

いい詩

よくない詩

などと評するのを

すっかり止めてしまっているので

どんな詩も

楽しい一行があればよく

うれしい一語があればいい

 

なので

高田敏子は懐かしい詩人だし

「忘れもの」も

思い出すたび

「そうだよなあ…」と思わせられる

うれしい詩となっている

 

そして

また

「どうだ、わからないだろう?」

「どうだ、窮極だろう?」

「どうだ、日常のドンクサイ生活を超えてるだろう?」

ばかりを

キリキリと目指した

翻訳文体型思考学生たちの現代詩から

生活の必然によって

おのずと距離を取らされて

主婦として

母として

働く女として

日常語で

わかりやすい詩を書こうとした高田敏子には

いよいよ現代

ちゃんと向き直して

彼女からの表現の可能性を引き出したい

とも思う

 

 

 

1914年に東京の日本橋の陶磁器卸売商の家に生まれ

江戸っ子気質で料理嫌い

しかし針仕事が大好きな母に育てられ

高田敏子は幼い頃から和裁の腕を磨いたという

父は浅草のオペラに連れていってくれたり

カフェや町歩きに連れていってくれたりしたそうだが

敏子15歳の時に脳溢血で急逝してしまう

母も精神を病むようになって

女学校の頃に彼女は詩歌に逢着することになる

詩歌というものが

「生への引き止め役」になったのらしい

 

20歳の時に

肉親たちに進められて気乗りのしない結婚をし

商事会社勤務の夫と1930年代の旧満州のハルビンへ赴き

長女を出産したが

夫は接待の麻雀などで忙しく

敏子は洋裁に没頭して腕を磨いていくことになる

1937年に盧溝橋事件が起こり

夫の新しい任地の天津では国防婦人会で働いたり

臨時野戦病院で負傷兵の看護をしたりする

 

1939年に一時帰国して次女の喜佐を出産し

大阪で洋裁学校へ通った

 

1942年に夫が台湾の高雄に赴任となり

ともに台湾に渡って

そこで長男を出産するが

爆撃を受けるような日々となって

終戦までをこの異郷の島で暮らすことになる

この時のことを

高田敏子はこう記している

 

生きていけないような戦争のなかで、

生きていることができたのは、

防空壕を出たときの一瞬の花の匂い、

子どもたちが『お母さん』と呼びかける声、

そのようなものに元気づけられていたのだろう。

私たちはこわい瞬間の後にも喜びを吸収している。

それが人間の生命力だと思う。

 

1946年に東京に戻り

杉並にいた母の家で狭い借間暮らしをするが

三人の子を抱えての

たいへんな食糧難だった

夫は家のことを省みなかったし

こころは通いあわなかったし

子らとは諍いが絶えず

平穏や愛情ややさしさと異なる感情に

こころはつねに揺らされていた

なんとか古道具屋で

ミシンと姿見を買い求め

洋裁の内職を始めたが

同じ頃

書店で見つけた雑誌「若草」に出会い

詩作も再開した

 

また詩を書くようになったのは

 

家庭生活のほかに何か一つ、

自分だけのものをもちたくなったから

 

と書いているが

現代詩のグループに入ってみて

「お母さん」でも「奥さん」でもなく

「高田さん」と呼ばれたことが

とても新鮮で

うれしかったという

 

洋裁の仕事を続けつつ

近所の主婦に洋裁を教えたりもして

他方

敏子は詩作を続けていった

しかし

現代詩のモダニズムの方法に疲れ

グループから離れることになる

 

現代詩はこう書かなくてはいけないのだ

という思いこみに縛られ、

息苦しくもなっていました

 

「日本未来派」の同人になったり

他の同人誌を作ったりして

違うかたちの詩作を

探っていくことになった

 

この頃

ひどい体調不良に襲われ

手足のしびれや

突然の高熱

歩行困難などに苛まれるが

脊髄腫瘍と判明する

しかし

手術が成功して

1959年には健康を取り戻した

 

高田敏子は

詩人としては

ほとんど無名だったのに

この頃に

ちょうど朝日新聞から依頼が来て

毎月曜日の夕刊に詩を載せるのを頼まれた

 

本当の詩をお書きになりたいでしょうが、

主婦層を対象に誰でもわかるやさしい、

いわゆる詩人の詩でない詩を書いて下さい

 

これは

当時の朝日新聞のデスクの

冴えた依頼だった

というべき

だろう

 

自分も平凡な主婦なのに、

そのことに気づかなかったのが恥ずかしい

 

高田敏子自身も

のちに

書いている

わかりやすい

簡単な言葉で詩を書くひと

としての

高田敏子の出発は

ここから始まった

といえる

 

時代は

安保闘争などで混乱しており

そのなかで

あえて

難しい表現や

高踏な詩的修飾の追求を捨て

主婦として

平易な言葉で書いていく連載は

家庭にある女性や

働く女性たちに支持された

 

私たちの毎日は、

心配ごとや疲れること、悲しい思いをすることが

ずいぶん多い。

でもなお生きつづけていられるのは何かしら、と思うのだ。

それは日常の草むらにかくれている小さな歓び、自然の優しさ、

そして、ひそやかな愛の息づきなのではないだろうか。

私はそれらをテーマにしたいと思った。

 

いわゆる詩壇では

高田敏子の評価はずいぶん低かったが

彼女の詩に出会って「詩人ではない詩人」となった

多くの人たちからの問合せが殺到し

高田敏子は「野火の会」を結成して

誰でも入ることのできる詩誌「野火」を

1966年に創刊する

「野火の会」は

800人前後の会員を持つことになったが

高田敏子は会員たちの詩集の編集も装幀も序文なども

すべて自分で行ったという

もちろん

彼女自身の詩作も出版も精力的に行われた

 

他方で

高田敏子は夫との協議離婚を遂げた

同居し続けたが

「父が無意識のうちに負わした母の心の傷の癒しは、難しいと思った」

と長女が語るような深い理由があって

敏子はそれに対し素直に行動したといえよう

 

夫を見送って

四年後

胃の不調と疲労感を覚え

ガンが発見される

胃の全摘手術を受けたが手術は成功し

回復の経過も悪くなく

活動は開始されたが

痛みは続き

杖を使っての歩行となった

 

一年四ヶ月後

腹部全体にガンが広がっているのがわかり

体力の衰えが募って

1989年5月28日に

高田敏子は

74歳8ヶ月で死去した

 

高田敏子は

「詩人」と呼ばれることを終生恥じた

というが

机に向かって

難しそうな言葉の弄くりかたをせず

むしろ

主婦として

あかるく振る舞い続けた

ともいう

 

ランボーが

20歳で詩作を捨て

パリの詩人たちを見捨てて

アフリカや中近東に

商人として出発して消え失せたのを思い出せば

詩人っぽくしないことは

じつは19世紀からすでに

詩人の格好つけのひとつでもあったのだから

高田敏子もけっこうランボーだった

と見直しておいてもよい

 

詩人っぽくしないことの恰好よさは

やる人が増えてくれば

すぐに反転して

今度はいかにも詩人たるべく

万巻の書の中に埋もれて

言葉に沈潜するボルヘス型も復活してくるのが

世の文学史というものでもある

 

ともあれ

彼女のこんな言葉は

やはり

新鮮であり続けるだろう

 

    生きることに馴れず、

おそれと、よろこびを持って

日々を受けとめてゆく心が「青春」なのでしょう。

私はいま自分のしていることの一つひとつを思ってみると、

青春時代の夢につながります。

いまになって、青春を生きている思いなのです。

 

和裁や洋裁に秀でた高田敏子のセンスは

次女の喜佐に受け継がれたらしく

この次女・高田喜佐は

のちに靴デザイナーとなって

オリジナルブランドKISSAを立ち上げることになる

エッセイストともなったが

母の死から17年経った後

2006年に

肝内胆管ガンで64歳で亡くなったそうな

 

https://www.shiho-tax.com/kissa-sport-revival/

 

https://croissant-online.jp/health/173781/

 

 

 

最後にもうひとつ

高田敏子の詩を見ておこう

死ぬ3年前

71歳の時のもの

 

 

子どもによせるソネット

 


真昼の空にも星のあることを

おとなたちは忘れてしまった

風の中に小人が眠っている姿も

もうおとなたちは見えなくなった

 

花は花であり

雲は雲でしかなくて

花びらのなかに眠ることも

雲に乗って走ることもできなくなった

 

そんなさびしいおとなたちのために

神さまは子どもたちをくださる

子どもはきのうの夢のつづきを話してくれる

 

そのやわらかな手のひらでおとなの心をあたため

その清らかなひとみのひかりで

さびしいおとなたちの目を洗ってくれる 
 

 

 

ソネット形式で書かれている

ことに

ちょっと

驚いてしまう

 

内容はずいぶん真面目なようだが

ソネット形式を使ったところに

高田敏子のいたずらっぽさがあるように

感じる

 

ともあれ

「子どもはきのうの夢のつづきを話してくれる」

いい

 

実際には

子どもはほとんど

「きのうの夢のつづきを話してくれる」ことはなく

きょうの夢や

さっき見た夢しか

話してくれない

 

じつは

さっき見た夢さえ

子どもには

どうでもいいことが多い

いま見えているものが

子どもには

みんな

夢だから

 

だから

「子どもはきのうの夢のつづきを話してくれる」

というのは

高田敏子ならではの

フィクション

 

「きのうの夢のつづきを話してくれる」人よ!

もっと

もっと

多くなって!

 

そうして

「きのうの夢のつづきを話してくれる」人に

なろう!

 

みんなで!

 

もっと!もっと!

 

という

呼びかけ

なのだ