2012年2月27日月曜日

来るものが来るまで



Ce jeu insensé d’écrire
(Mallarmé)





深夜テレビがいい映画をノーカットでやっていた頃
ビデオに撮るのが忙しくて
5本セットの生テープを仕事帰りに買って帰ることも多かった
デヴィッド・リンチもケン・ラッセルも
ヘルツォークも
ジェームズ・アイボリーも
そうして深夜に見て
ビデオに撮って
納得がいくまでくり返し見た

あの頃には金曜はいつも
終電間際で帰り
酒が入ったり入らなかったり
コーヒーだったり
ドーナツだったり
ふんだんに話したり議論すべきことがあって
新宿のカプチーノも
トップスも馴染みだった
最後までいつも居座って語りあう客の
ひとりだった

ウォークマンを十何台も聴き潰し
MDウォークマンさえ何台か聴き潰し
CDウォークマンさえ持ち歩いて
クラシック三昧だった
ピノックもムジカ・アンティクア・ケルンもまだ過激で
ガーディナーやアーノンクールも新鮮だった
人生の何処にいて何処に向かうか
わからないながら
バッハのチェンバロ協奏曲に生の煌めきの全てはあると思い
フィリップスのコープマンの演奏が聖書のようだった
一世を風靡した一九八一年録音のグールドの
ゴルトベルクのリアルタイムの感動を引きづり続けながら
グールドが死んでまだ一年にもならない年から
グールドが死んでまだ十年にしかならない頃を
正真正銘のボエームとして生きていた
フォークナーが自称するように
フェールド・ポエット(失敗した詩人)たるべく
詩も短歌も俳句も小説も構造主義批評もすべて読んで
古事記から黙阿弥までは暗記さえすべく黙々とページを繰り
若い取り返しのつかない日々を蕩尽しつつ

胸を張って今は
三文詩人ノ我ナリ、と言える
書くだけは書いた
つまらぬ自我の壁を守って恥かくのを恐れ
古典の確かさの中に籠もって研究者や読書家を気取る安逸連中と違って
無からの創出の暴挙に出た同志、三文詩人諸氏の
捨て身の煌めきと闇を共有しつつ
胸を張って
無と有のはざま
作ること
作り損ねること
残ること
残り損ねること
踏みはずし
無駄足
ふいの空中庭園
三文詩人だからこその
うつせみの世の把握

世間とかいうもの
もし実体があるならだが
総出でこの心身を愚弄するがいい
精髄を盗み味わって
しかし私は去っていく
最良の味を
時間と場所から絞り
人々の魂の
もっとも輝かしいところさえ吸って

一九八三年七月二十二日夜
二十三歳の私は出奔して
永遠に日本のスタンダード人生には戻らなかった
家族、先祖、子孫、地域、友人、上下関係
そんなものをおちょくりまくったその後の生を
知る者共有する者はもう
この世にはいない
たったひとりもいない
時代時代の倫理や感性を
分かち合うかのような演技だけしてきて
心も思考も
いつもお仕着せ
ただの制服
そろそろ脱ごうと思う
カエサルのものはカエサルにということ
言葉には言葉を返し
心には心
魂には魂
灰には灰
無には無
いつまでもお前に仕えていると思うなよ日本語
論理よ
抒情よ
価値よ
古典よ
刷新よ
言語と論理を使う者は所詮地べたに留まる
指でさすことさえが言葉
目を瞑ることさえが言葉

悪いが馬鹿にしている
籠もるところなどもうない
手持ちの言語さえなく
感情思考倫理希望企画未来すべて大量生産の紋切り型だった
過去もどこのコンビニでも売っている
上野でなく上中里だ
神なき里
たとえばたとえばたとえば
線路の錆
無人の渋谷
そうか固有名詞かもしれぬ
普通名詞だけで書く詩人たちがなぜダメになるかブルジョワになるか
新大崎
むしろ京急か
だぁしゃーいあす(ドア閉まります)
そして東上線は白い四角いムーミンのまま
昭和から平成の次へ駆け抜ける
(もう平成は終わるのだ…
(終わるのだ…
(終わっているのだ…

電車ではない
もはや戦後ではないから
小さめのカップで
やはりエスプレッソ
少ないほうがいいぞ
後は処女の経血
処女の、な
おまえさんたちじゃない
乗る
乗る
倫理学
すずしろ
(来てるな
(な、

OK!
振り子時計ではない、とにかく!
村!
そんなに大きくない鉄塔だ!
梟、いるのかな?
この森あの林むこうの山々
いてもいなくても我アリ

兎の絵が跳ねている
ぼくは
お絵かき帖の紙質にこだわり
最初の恋人を逃したかもしれない
隣りのゆり子ちゃん
セダンの
新車のおもちゃを砂場に突っこんだまま
いつのまにか
仙台も新潟も名古屋も
住んだ後
芒の揺れる
秋の日暮れは美しく寂しく
死後の思い出となろう
焼場の罐の中でも夢を見るのかしら
子宮の中でも夢を見たのかしら
親宮という
ものはないの?胎児の腹の
中には?

そして私は生まれる
私はいつも生まれる
生まれ続けるの、私

物に
負けるの?
懐柔?
物そのもの?
+アルファーかな、いつも?

けれども私は生まれる
どんなことがあっても
死んでも
生きても
滅んでも

私は生まれる
時のむこうへ
場のこちらへ
有のあちらへ
無のかなたへ

(イイジャナイカ、
(チッチャナ自我グライ、
(死ヌマデハ
(持ッテオケヨ…

荒野ではない
麦畑の延々と続く中を
走り去っていく美しい自動車を見ていた
いつまでも
いつまでも
エンジン音の聞こえなくなるまで
自動車が運命の
遠い確かな姿となるまで
日暮れか
夜明けか
わからない薄明の
澄明な時間
好きでしょ?
それ
あなたにあげる
だからいっしょに
まだ
生きていこう
まだ
まだ
ずっとこの先も
長い
長い
時間をこの手で作り出しながら
来るものが
来るまで
(正確な言辞ね、ようやく!
来るものが
来るまで


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