2012年8月23日木曜日

シルバーの自動車に乗って、私たちは話もせず、

  


 
シルバーの自動車に乗って、私たちは話もせず、大通りをすべって行く。オレンジのネオン、ヴァイオレットの看板が美しい。

もしや、ラ・ロシェルの城壁のわきの道を通っているのではないか、と思うが、そんなことはない。ローマのコロセウムをぐるっと廻り、まだ約束の時間には余裕のある夕べ、ラウラの住まいへ向かっていた時の感覚まで甦る。躰のあちこちから記憶の小さな花序が開き、神経叢とはちがう霊叢の回路のそこかしこにミモザの私が咲く。私たちはいつも、星々のリンパ液に涼しく浸ったベッドではなかったか。

ある時、とりどりの色どりの岩が自動車になり、その一台が先祖の若い金髪の王子を迎えに来た。王子の母はたちどころに白いチューリップに化し、それを握って彼は車に乗り込んだ。だから私たちには、チューリップリキュールがいまでも合う。幼時の古い家の裏で、女中のセツコがお祈りを捧げてから、束で持ってきた白いチューリップを大きなガラス瓶の強い酒に浸けこんでいた。ナイチンゲールの声を聴きながらイギリスの夜の真っ暗闇の中、ごつごつの低い石塀に座って透明な肌のジェーンと寄り添っていた頃の香りが車窓から入る。この街区にジェーンと名付けよう、乾杯。自動車のボディーにはきっと、トワイライトの空の深青が走り、ジェーンの感情の色彩が幾本も線を引いているだろう。甦りの色彩の中にはシルクハットを被っているものもあるが、たいていはレカミエ風のゆるやかなローブを纏っている。

私の心はラナンクラス。オレンジ色も強く、風は、き、ら、い。墓にひとりで行け、テルアビブから来た娘。いつか、ローマのカタコンベの外光の射す一角で、との約束はきっと果たすから。

夢見ることが、まだ、あるのか。大通りから小道に入り、自動車はスピードを落とす。走り続ける自動車には誰も乗っていない。速度は青い麦の穂の、腰にさわさわ当たる時の長さ。宇宙に思いを馳せない年頃の姉を慕って、いつのまにか速度を速めてしまっていた。ヒナゲシが成りかけの天使たちをよく救う。微風に揺れるスカートの断片。少女は裸。暗闇の底でひかり続けるために。透明ビニールのブックカバーを、だから、いつも持っている。少女を見つけたら、片方の平たい乳房にそれを押しつけ、思いっきり泣きわめくホムンクルスを、心の地下2階の隅のスタッフルームのロッカーのひとつから引きずり出して、用意してきた別の芳しい栴檀の箱に押し込め直す。海が少女の腹から浮き上がり始める。

自動車がまた大通りに出る。鏡が自分探しを続けているから、サイドミラーもバックミラーも海を映すばかり。ストロベリーパフェも。ラムレーズンアイス、微粒ダイヤの鏤められたティースプーン、使われないまま半世紀経た誕生日プレゼントのブラウンのリボンも。走り続ける自動車から、日に二度三度、大通りで鍵を放つ。その時だけ鍵は輝くイエローの魚になるから。その魚たちが都会に散って、いつか、やわらかい公園に群れ集まる。人もみな数センチ宙に浮き、水の速度を思い出しながら、さわさわとおしゃべりもするだろう。まだ間がある。黒い大きな男物のマントを着て顔をすっかり隠し、目だけ出して待つ異国の女神が待つ一角まで。いつも私たちのかたわらに浮いているボーンチャイナの、その女神の腋の肌のような白のカップが、春の桃園の空気を注入したマカロンの香りを立てて唇に近づく。

希望は黄色い新聞紙で包まれている。黄緑色の新しい空気入れを使って、マロニー夫人にも、また空気を入れてきた。知性の皺は取れづらく、鏡はきまって「美人だよ、今日も」と告げる。黒い峠を黒いふたりで思い描くが、越えに行かず、トレビの泉でなにかを我慢してしまって。トイレに未発見の聖女を探しに立とうとするが、カサブランカが目の前に急に立ち、道を塞ぐ。無性に透明の土を開発したくなり、あらゆる観葉植物の根が見える花屋をプラハあたりに開きたくなりはじめる。

本当は、誰に会ったのか?これが私の手である訳は私こそがいちばん眺め続けたから。生れてしばらくは、きっと私の手ではなく、母の手だっただろう。生後数カ月の私を最も可愛がったのは隣りの20代の、少し知的障害のある美しい女だったと、つい昨日、87歳になる伯母が洩らした。母も伯母もその女にどこかで到達したがったらしいが、若草の中を飛ぶウスバカゲロウのような頬の女は、ついに一度も私に頬ずりはしなかった。そうして、苺の肌を細い針で傷つけるのを好んだ。食べずにすべての苺を森林公園の小川に流しに行き、群れている小さなオタマジャクシの上をゆっくり滑って行くのを愉しんだという。哀れ、生けにえの苺たち、汝らのための大きな墓を造ろう。蓬の建築家を招き、まずモグラの係累たちに宴を任せて、イモリの腹にわが執事たちの性器を乗せて、ひたひたと憩わせてから。

さわさわとさえ音を立てずに揺れる萩の葉の繁りの中を、あの夏、この初秋、どこへ本当は向かおうとしていたか。途中の庵でお茶を頂き、私たちはしばらく畳に座ったまま、人生の今を少し掴み損ねたかもしれない。螢がブローチやペンダントになったまま、上半身がいつも6月のままで、と途中下車した田舎の、確か里子さんという宿の娘が洩らした。つやつやに磨かれた黒い廊下の階段のところで私の腕に凭れかかって、あれはブルーオリヤン、東洋の青、というのか、深く晴れやかなところのある河が里子さんの胸からゆっくり流れ出していった。白い柔らかな、ゴムのようなビニール装の表紙の中型辞典が触りたくなって、私は高い塔の上に立ち、そこから足を片方伸ばして河のおもてに靴の裏をつけたり、離したり。まだ生れていなかったのを、そうしながらようやく理解していった。

墓の細い径をどこまでも行く自分の背中だけが見える。どこまで独りだろう。遠いココアの香りがする。太い縁の眼鏡にしておいて、よかったとジェーンが言ったのが、切れ切れに甦る。よい色合いの鼈甲のようなフレームの眼鏡を作ったばかりで、すこしうきうきしてミラノの路地にふたりして折れたところだった。干したりない鱈を何枚か貰って、寂しい浜から国道に出る。靴に少し入った砂は、アウグスチヌスの灰の一部。絹の大きなスカーフを巻いてきてよかった、この寒さだものね。もっと厚手のマフラーが欲しいが、これはインドネシアのなかなか良いバテイックなのだ。森のように木々の繁った庭のあるウブドのレストラン、あの仄暗さの中ではナシゴレンの甘さがあらゆる謎への解答のようで、心のすべてがずれることなく合致していた。離れて置かれた大きなテーブルの上の蝋燭の灯が、しばし憩うことにした人魂のように揺れる。知っていた?、人魂と霊は違うのよ。精神と意識だって違うのよ。それらを定義することで終わる生も無数にあるのだ、ドイツ語の冠詞の研究で生を終えた教授たちの遺骨だけを集めて祀る墓があるそうだが、青山先生の骨は誰か分骨して、あそこに入れたのかしら?… 

海が荒れてきている、見たまえ、ポテトサラダを買って帰ってくるあの娘。髪が風に吹き乱されて、もう夜明けのようだ。天使も待ちわびているだろう。自動車は、だから、走り続けている。動くもの、動かぬもの。運動様態の量にも不変の法則がある。君がそこに動かずにいることで、地球の裏の暴動の運動性が保証されるのだ。名を忘れたが、可憐な野の花よ、濃い緑の葉に守られて汝らは今生を全うせよ。そういう輪廻の瞬間もある。くり返されることのない期限付きの時間。



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