2012年12月9日日曜日

なごり雪 [本歌取り]

 [伊勢正三作詞・作曲 / 瀬尾十三編曲 / かぐや姫orイルカ『なごり雪』(1975)の本歌取り]



汽車を待つきみのよこで
時計をみるふりをしながら
きみの発ったあとに寄せ来る
冷たい水のようなものに
もう指先を透明にさせて
季節はずれの雪の降るのを
じんせいの外で見ている

―東京でみる雪、これが
さいごね、とつぶやくのは
きみか、きのうまでのぼくらか

さみしさではない澄明な
湖と湖をつなぐ地の底の
さらさらと澄んだ水脈の
ふたりへと降るなごり雪の
過去といまとの撹拌の宙に
春は来てきみはきれいで
去年よりずっときれいで

動きはじめた汽車の窓に
顔をつけてまでいうことなど
ないのにきみはふりをする
そむけるこころもないはずなのに
きみの目も唇もそれて足もとの
なごり雪の白い堆積をふたりの
過ぎたあの日この日のように
遠いもののように眺めていると
きれいになったきみをよろこび
おとなになったきみをよろこび
さよならのかがやかしさよ
かなしみが水のようなら
こしかたが雪のようなら

去ったのはきみかそれとも
ぼくの一部かたましいか夢か
ホームに残りはたはたと
落ちてはとける雪を見ていて
この春のはじまりのときを
さよならのかがやかしさの
なごり雪落ちてはとけて
落ちてはとけてぼくひとり
ホームにのこるさよならの
かがやかしさよ
かなしみが水のようなら
こしかたが雪のようなら




参考動画・音楽
イルカ 往時のヴァージョン
イルカ 近年のヴァージョン
伊勢正三 オリジナル・ヴァージョン
伊勢正三 1975年 かぐや姫ライブ
伊勢正三&イルカ 近年のヴァージョン
平原綾香ヴァージョン
鬼塚ちひろヴァージョン



◆この本歌取りは、1995年に書いたもので、個人雑誌『Nouveau Frisson』42号に掲載した。地下鉄サリン事件の直後に集中的に行った本歌取りや翻案、あるいはカヴァーの試みの中では、最も深入りして作ったもののひとつとなった。伊勢正三のもとの歌詞に、そういう試みを要求してくるような豊かな繊細さがあったからで、原詞のそうした力に引っ張られるようにして後続者も動かされていくところがある。
『なごり雪』の作られた頃のフォークソング、そればかりか歌謡曲全体も含めた俗謡の世界には、歌詞において名作が続出し、時代を経れば経るほど、見直してみて、豊かさに驚かされる。通俗なものが良質であった時代である。

◆通俗詞においては、恋愛や人生や夢や希望において、万人に通用する抽象性が貫徹されていなければならない。通俗とは広範な通用性を体現しているということである。にもかかわらず、この時期までの日本の通俗歌や通俗詞は、まるで個別性や独異性を相当程度に読み込んだかのような独自の彫刻が詩句に達成されている場合が少なくない。けっして個別的な内容が表現されているわけではないのだが、そのように感じさせるようなアングルの発見や切り込みがあった。
通俗的、文芸的を問わず、あらゆる詩歌は、私的なものと一般的なものとの配合具合によって、すべてが決まる。一般的なものや通俗なものを極力排除すれば、その詩歌の通用性は減少する。言語という通用性そのものの記号体系を用いていることだけに通用性を託して、常識的には無意味としか見えない詩歌が成立するのを極北とする。
 歌謡、ポップス、ロックから、文学的な極端な実験的試作まで含めて、どのレベルの詩歌や歌詞を宗とする詩人や作詞者も、私的なものと一般的なものとの配合具合の検討を逃れることはできない。詩歌や詞に関心を持つような心と頭を持って生まれてきてしまった脳を抱える者は、たえず、最新の流行ポップスから記紀歌謡や外国の抽象詩まで見続けていかなければならない理由がここにある。

◆ところで、伊勢正三が、声がでづらくなったのをカヴァーするためか、ある時期から歌い方を変えてしまったのは、やはり、ちょっと残念に思う。作った当時の水も滴るような歌い方はCDに残っているので、それを聴けばいいのではあるが、CDもちょっと間違うと、新しい歌い方のものが載っている。
 少し前までは、こうした新しい歌い方を認め難く思ったものだが、こちらの側の変化もあるのだろう、最近は、それもよし、と思えるようになってきた。歌うたびに歌手本人の歌唱が変わるのも、なるほど、ジャズ演奏やシャンソン歌唱を思えば創造の一貫であるし、多様なヴァージョンが出るのも、よりいっそうのスタンダードが出て来る可能性に開かれていると思えば、豊かさへと向かう行為ではある。
 イルカの歌い方も、今はずいぶん変わってしまった。こちらは、『なごり雪』をもっと〈歌〉にしていく意欲が歌唱の底に流れるようになったと感じる。もちろん、歌い手として悪くない姿勢だが、他方で、この歌がどこまでも大学卒業程度の年齢の未熟な青年たちの歌であるのを思えば、うまくなくてもよいから、どんどん出てくる若い歌手たちにこそ歌ってもらいたいと思う。ある程度以上の歌唱力を持っていたり、個性的な声や歌い方を持っていたりする若者たちがどう演出して歌いこなしていくかに接するのは、伊勢正三やイルカの古い歌い方を聴き直すよりも面白い。
 後続の歌手たちによるカヴァーの楽しさとなれば、もちろん、世界で枚挙にいとまはない。たとえば、イズことイズラエル・カマカウィオーレによる『虹の彼方へ』のカヴァーが、ジュディー・ガーランドの元の歌い方とはまったく別の新鮮な世界を開いたのがすぐに思い浮かぶが、リンダ・ロンシュタットによる至福の『ホワッツ・ニュー』や、ジョン・デンヴァーを超えられるはずがないと見えた『カントリー・ロード』をオリビア・ニュートン=ジョンが軽々と魅力的にカヴァーしてしまったのもすぐに思い出される。70年代頃の日本のフォークや歌謡曲も、まだまだ魅力的な展開が待たれているように思う。過去に作られた歌の数々は、終わっていくのではなく、つねに、いっそうの更新と挑戦を待ち続けているものだ。


参考動画・音楽
Linda Ronstadt : What's New
Olivia Newton-John : Take me home country roads
John Denver : Take me home country roads
John Denver : Take me home country roads (at the Wildlife Concert - 1995)
Israel "IZ" Kamakawiwo'ole : Somewhere Over the Rainbow
Judy Garland : Somewhere Over The Rainbow



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