2014年11月20日木曜日

右の頬を打たれたら左の頬も差し出せとイエスが言ったのは




右の頬を打たれたら左の頬も差し出せ
とイエスが言ったのは
やってくるもの
与えられるもの
強いられるもの
すべてを受け入れよという
修行者たちのための
究極の教えだっただろうか…

きみはこの世に来るのを受け入れ
いのちを受け入れ
いのちにしばし運ばれるのを受け入れ
原子がつぎつぎ体に集まってくるのを受け入れ
からだが大きく逞しくなるのを受け入れ
うつくしく輝かしくなるのを受け入れ
そうしてわたしのことばに惹かれるのを受け入れ
いくばくかはわたしを理解するのを受け入れてきた
そこで止まるのか?
そこで止まれるとでも思うのか?

そうイエスは後押ししていたのだろうか…

きみに与えられてきたもの
いのち
からだ
時間やさまざまな場所
よきものうつくしきものに感応するこころや精神
それらが剥がれ
崩れ去っていくのも
どうして受け入れないでいられようか
受け入れよ
これから起こることすべても
受け入れ続けていけ
幸いなるかな
逝く者よ
逝け
逝け

般若心経のように
そう
励まして言ったことばだっただろうか…


  



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