2015年1月24日土曜日

シナイ山の下の




人はあゝも言い
こうも言う
どうとでも言う
なんとでも言える
どちら向きにも理屈は作れる
おなじ原理を使って
相反する理屈を組み立てる思考実験もできる
いくらでも
何度でも
精緻に複雑に

それを叡智だの
文化だの
業績だのと
褒め称える慣習まである
そんな慣習にコバンザメして
金を稼ぐ輩も
いつも
いまでも
いつまでも
いっぱい

まるで議論などというものが価値あるものかのように
さんざん時間を費やしたのちに
そうして結局
じぶんたちはなにがしたいんだ
なにがしたかったんだ
という
ふり出しに戻る

自由がほしかったんだろう?
平等がほしかったんだろう?
平和がほしかったんだろう?
世界中を旅したかった?
他人に勝ちたかったんだろう?
月にも火星にも行きたかった?

だが
なんのために?と尋ねると
だれも答えられない

ほしかったもの
ほしがるべきだと言われてきたものは
たいてい
なくてもよかったか
だいたいの程度
あったりなかったりすれば
よかったもの

どんな場所でも
どんな境遇でも
一見すっかりなくなってしまったかに見えても
完全に失われることなどありえないもの

どうせ死ぬのに
どうせ衰弱して
必死に掻き集めたものも
力の失せた腕では使えなくなるのに
肉の落ち切った足腰では
モノのところまで歩いて行くこともできなくなるのに
モノを認知さえできなくなるのに
…などと正論をまっ先に言えば
うしろ向きだとか
さびしいとか
虚無的だとか
そんなふうに言って
はかないお祭りを続けようとする人ばかりの
シナイ山の下の
あいもかわらぬ偶像崇拝の
人びと



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