自然主義の短歌のなかでは
前田夕暮の歌は果敢だった
「自分は何時も通例人であらんこと願ふ。
「唯一箇の人間であつたらそれでよいと思ふ。
「通例人の思つたこと、 感じたことを修飾せず正直に歌ひたいと思ふ。
こんな宣言に肉薄すべく
現実生活の断片や砂を噛むような日常の生活感情を
あえて無技巧な平面的描写で表現してみた
いわゆる実験的な価値は
十二分にあったものの…
個人的に好きにはなれない
たとえば
襟足のつきし袷と古帽子宿をいでゆくさびしき男
やや古き畳の上にちらばれる十月の日のなかに横臥す
低能児あかただれたる夕空の下にうたへるその黄なる顔
かへるゆく女よ汝が肩あげのさびしきあとにほこりうくみゆ
冬の朝まずしき宿の味噌汁のにほひとともにおきいでにけり
風暗き都会の冬は来たりけり帰りて牛乳(ちち)のつめたきを飲む
つまらないのだ
だから
放ったままにしてきた
だが彼の自然主義期のこうした歌を見直してみると
逆に短歌を通じてこちらがどこへ向かいたがっているのか
よく浮きあがってくるようにも感じる
そういう意味では
前田夕暮は短歌の零度とも言えるかもしれない
これらの歌境を不満とするなら
どの方向へどのように逃走線を引くか
そんな作戦図が見やすくなるように思える
前田夕暮はさらに暴露的になり
倦怠
疲労
あきらめ
などなどなどなど
の中に
人生的な意味を見出そうとしていったようだが
(あんまり
(評判はよくないのだヨ
(この、
(暴露っぽいところ
たとえば
見のこしし夢をいだいて嫁ぎ来し女の夜のうつくしきかな
本能の前にしづかに膝を折る彼のおとなしき獣のごとし
脳暗く心しびれて忘却のしきりにいたるわれを悲しめ
絶望は二人に来たる味うまき果を疾くわれ等くらひつくして
霧やがて霽るれば山はうすいろの藍をながしぬ日の色悲し
でもねェ
悪くないじゃないの
性愛の前田夕暮
悪くなぁい
いいところに来ている
あとは言葉の豪奢さが加わってきさえすれば
自然主義から断じて得られぬ
豪奢
絢爛
色彩
澄明
それにコク
そうしたらタニザキや
ミシマは
あと一歩のところだったが…
なのに
折れたね、前田サン
後にはついに
絵画的な描写に感視覚的な喜びを求めるほうへと
転じていってしまった
―そりゃ
―そうだろうさ
と思う人もいるようだが
惜しいな
残念
とわたしは思う
自然主義的短歌には
じつは一種の嫌悪を感じていたのだと
後年になって回想までしているが
残念
時代に流されて
時間を無駄にしたと思ったか?
無駄では
なかったと
いうべきだろ?
自然主義短歌の泥沼を超えて
抜け出た先の性愛歌集を
救って
おくべきだろ?
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