2015年10月11日日曜日

しかして問う

  

心や考えについてなら
誰でもそれなりに把握している
じぶんのどこらへんに心があって
それと考えはどの程度混ざっているか
どこからが心とは呼びづらく
どこからが考えとしか呼べないらしいと
曖昧ながらも把握している

しかし
それでは魂は?
心はどこから魂になるのか?
どこらで魂に接するのか?
それとも接しないのか?
考えは魂に繋がっているのか?
考えからはどんなに飛躍しても魂には至れないのか?

心、考え、魂、それらの核心部分は
じつはイメージでできている
映像や図で
または表象で
そうしてそれらには
ぴったりと
言葉の裏地がくっついている
しようと思えばなんとか表現できるようなものは
イメージと言葉でほとんどすべてができている

だから
イメージや言葉を酷使する領域が
誰にとっても大事なのだ
それらが人の外部にあるようでも
それらに関わることはそのまま内部に関わることになる
それらに関わりながら
交わりながら
人は心の
考えの
魂の
構造と原理にどんどん深入りしていく
精神分析学が気づいたのはこのあたりのこと

どうして物語が大切か
どうして小説が大切か
どうして詩歌が大切か
どうして映画が大切か
言葉はかならず物語や筋とともにしかあり得ず
イメージや言葉に関わろうとすれば
人は物語や筋にも関わっていなければならない
世界中を席巻したインターネットや
昨今流行りのスマートフォンが
イメージと言葉と物語の可塑的な動体のスクリーンであることには
ちゃんと気づいておく必要がある
人が魅せられ
吸い寄せられていってしまうものは
かならず心と考えと魂の秘密を明かす契機となるもの
人びとをなにかに魅せられ吸い寄せられるまゝに
そのままにしておけ
魂の修行は僧院の奥だけでなされたり
大自然の奥で粗衣粗食でなされたりするばかりではない
電子機器片手に心身解脱してなされもする

―しかして問う

心と魂の関係は如何?
汝の自己と魂の関係は如何?
そもそも汝とは誰?



0 件のコメント:

コメントを投稿