2017年9月11日月曜日

『シルヴィ、から』 12

 複声レチタティーヴォの連続のみから成るカンタータ叙事詩
 [1982年作]   

 (第七声) 3 

  (承前)

発熱、という文字が脳裡に浮かんだ。
自分もまたずっと雨の中を濡れ歩いてきたのだ、熱も少しは出るだろう、と、軽くこの文字を忘却の中へ向かわせようとしたが、しかし、発熱というこの字面と、hatsunetsuという発音とが相まって醸し出されるなんとも逃れられないようなくすぐったいもどかしさからは、いやましてわたしを支配しようとするこの言葉のしたたかさが強く感じられた。
わたしのすべてが〈発熱〉の手中にすでに落ちてしまったような気になった。
もし、今、発熱して寝込むようなことがあれば、自分の横たわる病室の窓の外に降りて来てでもいる、なにか表皮のざらついた大樹の枝が、突風とともに窓ガラスを意外に神経質に、たとえば女の使う細い鞭のように叩くに違いないと思われた。
その女はある男から戯れに鞭を送られて、その振り方まで教わったのだが、そんなもの自分には永遠に必要ないとばかりに放り出しておいたのだった。
後日、男が離れて行った時、かつて鞭を送られたその時にはすでに彼が他の女を好きになってなんらかの交渉をその女と持ってさえいたと知った時に、やにわに彼女は鞭を箱から取り出して、即座にすぐ足元の絨毯を叩いてみた。
しかし、今の自分の心の間隙にその先端の衝き入っていくような音が聞かれなかったために、今度は、台所をすぐ出たところの廊下の硬質のタイル張りのところまで駆けて行って、そこで思いっきり鞭を振り下ろした。
すると、今度は、自分にもっとも相応しい音が響いた。
彼女は振り続けた。
針で一穴一穴紙を貫いていれば、やがては腕が通るほどの大きな穴になるだろう、それを作ることができるだろう、と予想する人間の持つ、一見馬鹿らしい妙な確信、しかし、その刹那にはそれがなければ正気を保っていられなくなるような確信を抱いて、女は一打一打の鞭の音を心に吸った。
もし寝込むようなことになるならば、嫌な顔など全くせずに口に含んだ薬の苦みを何度も舌に蘇らせながら、自分を守るための慎ましい温度をベッドの中に保って、そういう音を頭上の窓ガラスに聞くに違いない、とわたしは思ったのだった。

いずれにしても、ーーそういう音が聞こえようと聞こえまいと、また、わたしが発熱しようとしまいと、これから少なくとも何日かは休めるだろう、どれか空いているベッドに横になって休めるだろう、と考えた。
わたしはやるべきことをやり終えた。
シルヴィを医院に運び込むということをやり終えたのだ。
シルヴィを前にして傍らに腰を下していたあの時に、わたしを現実的な行動に向かわせた義務の心は、今になって消解されたことになるのだ。
それにしてもなんというわだかまり、なんという悩ましさだったことか。
あの肉体の中にあらゆる重さが集って、わたしを何処とも知れぬところへのめり込ませるようだった。
他の者たち、他の声たちはいったいなにを語っているのか。
あたかも幸福を、将来、シルヴィがもたらしてくれるかのように語るではないか。
虚しい幻をどうして追うのか。
シルヴィはいつもいつも、ただわたしを苦しませるだけだったではないか。
それは赤児の持つ途轍もない重み、明星の投げかけるこの上ない深い闇のようにわたしの顔を強張らせてきた。
この道程にあって、今さらシルヴィに会うなどとは予想だにしなかったし、ましてや望みなどしなかった。
しかし、ともかくも、わたしはとうとうシルヴィをあの医師に委ねた。
わたしは自ら積年の重荷を逃れた。
今は静かに休もう。
わたしは長い眠りを求めよう。


 (第七声 終わり)




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