2017年9月10日日曜日

だれもが判定者であろうとしたがる


La bêtise consiste à vouloir conclure.
Flaubert

  
だれもが
判定者であろうとしたがる
それも
最終判定者に


世の中は
一言居士でいっぱい
一言で済ませられない人たちは
評論家もどきに

最後に勝つ評者は
いつの時代でも
他人より生きのびた者
ほんの数年でも
ほんの数秒でも
生きのびた者こそが
最後に勝つ評者

もちろん
彼も
時の経過とともに
すぐに負ける
彼を弔う人たちが
この人はこういう人でした…
と弔辞めいたことを
語る時
もう彼は負ける
評される側にまわったから

判定する
判定される
評する
評される
この下らない無間地獄を抜けるには
どうすればいいだろう

やっぱり
チェーホフのような
人界への鏡としての小説
へと向かうか

ドストエフスキーのように
複数の声や思念を
厖大に収録し続ける場としての
ポリフォニー小説
へと繁殖していくか

視野に入るすべての人間たちを
自分の巣に懸った情報として
凝視し
彼らの声に耳を凝らし
オブジェとして舐めまわす
クモのようで
さらには彼らに対する
さまざまな自分の思いも
すぐさまオブジェ化し
ためつすがめつ
ひっくり返したり
弾いたり
否定したり
また見直したりする
プルーストのやり方の
世界を膠着させずに
成ったかと思うと
また変容させ
ひっくり返し続けていく
あの不安定さと
無限変容の増殖ぶりへと
蕩け出ていくべきか



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