2017年9月9日土曜日

『シルヴィ、から』 10

 複声レチタティーヴォの連続のみから成るカンタータ叙事詩
 [1982年作]   

 (第七声) 1 


 だが、そういうことに思いを巡らすよりも、まずやらなければならないことが、シルヴィの脇にしゃがんだままの嵐の中のわたしにはあるはずだった。

 このままではシルヴィは死んでしまうだろう。
この急がねばならない状態を前にして、わたしは何をしていたのか。
すでに土気色に蒼色に、あくまでわたしの記憶のうちでは温かく、薄赤くさえあるはずだった彼女の肌は、色を変えてしまっていた。

わたしは彼女の右脇から背に自分の左腕を通して、肩胛骨を支え、手のひらを左脇に出し、しっかりと支えるために指を左乳房にまで伸ばし、右腕を腿の裏にまわした。
立ちあがるとシルヴィの頭と両腕ががっくりと垂れた。
たった今掘り出されたばかりで、まだ土に塗れているが、なんらかの奇跡によって人体の柔らかみを与えられた古代の彫像を両腕に抱えてでもいるようだった。

彼女の右頬に、抱き起こした時に撥ねたらしい泥の小さな塊が付いていたが、それがなにかとても傷ましいものに感じられて、道を歩き出しながら自分の頬で拭い取ってやろうとした。
だが、激しい雨のほうがよほどきれいに洗い落すはずだと思い直し、この裸体の洗浄をすべて雨に任せた。

荷物を、旅行鞄を思い出して、ふと立ち止まってふり返った。
鞄は、道のかたわらに、もう此処からはかなり離れて、赤いまま、雨に打たれて横ざまに立てられていた。
あのままにしておこう、と思った。
いつか再びこの道を戻って探しに来ることもあるだろう。
だが、その時まで鞄はあのままにされているだろうか。そんなことがありうるかのように、この時のわたしが信じたとでもいうのだろうか。

しばらく行くと、左に細い道の分かれるところに出た。その叉のところに立ち止って細い道の先を望むと、遠くに建物がひとつあるのがわかった。
医院と見えた。かがやきのない白い平屋の、坪数の広い建物であると見えただけで、いまだ遠いこともあって、肉眼では医院であるなどとはわからなかったはずだが、しかし、それが医院であるのを、ずっと以前から、過去のある時点から知っていたかのような気が、わたしにはしていた。
むろん、わたしは、自分のそんな思いを疑ってもみた。はじめて来た場所なのに、あれが医院だなどとわかるわけがない、と。だが、一方で、いや、此処は確かに来たことがある場所だ、今なにをすべきか、わたしのまわりの有象無象のものがどのように動き、時を展開させるかも、ほら、この通り、心の深いところでわかってしまっているではないか、とも思うのだった。
意識にとっても、今のこの状態は、想像の中にぽっかりと開いた休息の場のようなものだった。想像力がしばし休息しても、その間、想像そのものの流れのほうは、惰性であやまたず進んでくれる時。

あの建物が医院であろうとなかろうと、とにかくあそこまで行けば、今の状態から解かれうるに違いなかった。
わたしは解放されるのを欲していた。
体は疲労していただろうか。
冷たさの中で、シルヴィを抱えている腕は硬直しつつあったろうか。
いや、わたしは身体的にはなんの不快も感じていなかった。
少なくとも、自分ではそう思っていた。
では、なにからの解放を望んでいたのか。
わたしにはわからなかった。
わかっていたのは、シルヴィを両腕に抱えて嵐の雨の中を、泥に足を取られながら歩んでいくこの状態は間違いなく終わるだろうということと、終わらなければならないということ、そして、それらが確実なことである以上、自分は今、そうなることを欲しなければならないのだ、ということだった。

ふと、わたしは、雨が冷たいということに気づくのだった。
そんなことは、さっきから、否応もなく知らざるをえない事実であり、冷たいと感じ続けていたとわかってもいるのに、わたしは、突然の発作の所産のようなこの感覚に驚き直すのだった。
そうして、気づいた。
わたしは今、降る雨の上から自分を見下ろしてもいるのだった。
視界は果てしなく広がり、自分がどこを歩いているか、自分から隔たったあらゆる場所で、今、なにが生じているかを瞬時に察し得るようだった。
雨の無数の糸は、あたかもわたしの中から目を通して視線のように眼下の自分へと降り注ぎ、他方、これまで来た田舎道を捨てて小道へと踏み入ったわたしは、自分自身の親しい前触れに道を照らされたように、深い安堵に包まれて歩いて行くのだった。

だが、そう認識するや否や、それまで感じなかった重い疲労を負わされて、わたしは再び、位置のよくわからない田舎の耕作地の寒々とした大きな広がりの中、偶然に自分の前に現われたかのような、ただそれだけの意味しかないような小道の上にいた。
それはしかし、とにかくも、医院に続く道だった。すでに、かなり近づいていた。
もう大丈夫だという思いとともに、腕の中のシルヴィを見た。
今までより、彼女の体が小さくなっているように思われた。
歩き続けた。
間違いではなかった。
彼女の体は小さくなり続けていた。
ほとんど到着したといってよいあたりで、わたしは堪え切れなくなって、ついに駆け出した。
シルヴィはわたしの走る速さに応じて、さらに小さくなり続けた。彼女の体の小さくなっていく速さよりもいっそう速く行かなければ、と思った。

すでに建物には着いていた。扉は、真ん中でふたつに分かれて左右に開かれるかたちのもので、片側が全開されていた。
玄関に二三段ほどの小さな階段があり、そこでわたしは躓いた。
どうにか転倒を避け、その時踏みしめた足の恐ろしいほど場違いな音を聞きながら、此処が本当に医院であることを、その特有の臭いで知った。
ほとんど乳児ほどに小さくなったシルヴィを、雨水そのもののように凍えたわたしの胸で温めるようにして抱き締めながら、暗い廊下を走り、診察室を探し当ててその中へ駆け込んだ。
診察室の扉は玄関そのものと同じ形体で、やはりその片側だけが開かれていた。
部屋の中はいっぱいに明かりが灯されていて、途方もない眩しさの中で、医師らしい中背の男がわたしのほうに両腕を広げていた。彼の顔は、赤茶色の暖かい色あいの髭で覆われているように見えた。
シルヴィを捧げもののように彼の腕に委ね、目を見つめて、
「死んでしまいます…」
 と呟いた。
 それ以上言う元気はなく、なにをどう言えばいいのかも纏まらず、たぶん強ばった顔を医師に向けていたのだろうと思うが、医師のほうは、なにもかもわかっているとでもいうように、二度大きく頷いた。

 (続く)



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