2017年9月10日日曜日

『シルヴィ、から』 11

 複声レチタティーヴォの連続のみから成るカンタータ叙事詩
 [1982年作]   

 (第七声) 2 


 (承前)

 医師に合図された看護師が、わたしより背が低いにもかかわらず、わたしの肩に片手を乗せて、背を抱くようにして診察室の外へわたしを連れ出した。後ろ手にそっと扉を閉めると、傍らに置かれていた長椅子にわたしを座らせ、わたしの額や頬に掌をあてて、顔を少ししかめ、「ちょっと待っていてください」と言って、どこかへ去った。
 わたしは目を瞑り、上からなにものかに引っ張られるようにして姿勢をどうにか保ったまま、椅子の冷えた背に凭れていた。疲労が小さな震えとなって全身から滲み出していくのを感じていた
シルヴィはどうなっていくのだろう。死んでしまうのだろうか。そんな思いが、いつのまにか、死という言葉を引きよせてきた。その言葉は、わたしのうちに急速に固定観念のようになって結ばれていくようだった。
シルヴィの死、シルヴィの死…と、頭のどこかで幾度もくり返され、それを軸にして思念が自動運動を始めているようだった。
わたしは、まるで、難解な章句を読み飛ばしてもう一度正確に追い直そうとする時のような注意深さで、シルヴィの死という言葉を、一音節ずつ確実に辿り直そうとした。そうしさえすれば、なにか確固としたものに、死も不死もないものに手が届くかとでも、心の深いところが信じているかのようだった。

すぐ目と鼻の先の診察室の中にシルヴィがいるにもかかわらず、わたしはずいぶんと彼女から遠ざかってしまったように感じていた
さっき、病院に近づくにつれて彼女の体が縮まって行った時に、すでにわたしはシルヴィから、歯車の正確な噛み合いのような確実さで遠ざかり出していたのではないか、と思われた。
ならば、医師に彼女を委ねた時、彼がすべてを了解しているというように頷くのを見て、心に懸かっていたなにかについての考察をわたしが停止した時、わたしは自分自身でこのことを、シルヴィから遠ざかってしまうということを是認してしまったことになるのではないか、とも思われた。
大変な失敗をしたのかもしれなかった。
しかし、その失敗は、なんと自然に、必然的な様相でやってきたことだろう。
少なくとも、わたしは、このためにようやく足を休めることができたのだ。あたかも、つらい時には容赦なくつらい道を、快い時には十全に快い道を人間に示す、気心の完全に知れた運命という女神が、今回は後者のほうをわたしに示してくれた、と知ったかのように。
その女神からつれなくされながらも、猶も度あるごとにまなざしに乗せようとする、愛着の念とも、あるいはすでに彼女の心を読み取ろうとする気力さえ失った者の目に滲み上る、涙のような、あきらめの念ともつかぬ色を以て、いや、むしろ、その自分の目の色にその目自体を引き寄せられたようにして、わたしはふと、診察室の扉を見た。

閉められた扉の表は黒く見えた。
わたしが見知った多くの病院のもののように、本当は茶色いのではないか、此処は暗いから黒く見えただけではないのか、と考えたが、そういう思いの底から、自分はさっき看護師が後ろ手に扉を閉めるのを本当に見たのだろうかという奇妙な疑念が上って来て、たちまちのうちに他の思いを霧消させてしまった。
なぜこうした脈絡のない思いが浮かんでくるのだろうと考えたが、脈絡がないのではない、そうではなく、扉、ーー自分が今、惹かれるままに目をやった扉を中心にして、いろいろな思いが意識裡に浮かんだり沈んだりしているのだとわかった。
言葉のかたちをとらないどこかで、さっき、廊下に出た際の看護師の背が診察室内の明かりの反映を受けて、今わたしの見たこの扉の表を照らしはしなかったか、と問われたに違いなかった。
心の底から浮かび上がってくる突然のこうした問いのからくりを、いくぶん推察できたような気になって、なるほど、と呟いて、少し微笑んだが、急に今度は、首筋をきつく引っぱられるような肉体的な感触とともに、嘘だ、でたらめだ、という断定が浮かび上がってきて、わたしの頭を後ろにのけ反らした。
看護師は、わたしを抱きかかえるようにして診察室から出たはずだったじゃないか。
看護師はわたしの背に、やわらかさを蔵した硬さの感じられるほどに片胸を押しつけ、わたしの右の肩を手できつく押さえるようにして、わたしを廊下へ押し出したのだ。
彼女はわたしの左背後にいて、その右手がわたしの右肩に、そして一方、あの胸は、彼女の胸は、それでは右の胸だったというわけだ、いずれにしても、そのようにして彼女はわたしの後ろにいた。廊下に出た時、わたしは足元を見ていて、……それから、廊下の左右の壁を一瞥して、……そして、……長椅子に座らされたというわけだ。
彼女が扉を閉めるところなど見ていないじゃないか。
けっして見ていないのだ。
見てなどいない……

ひとつのそういう結論に達しながら、白いものが視野の中を立ち上っては散っていくことに、しかも、かなり前からそれがくり返されているらしいことに気づくのだった
わたしの吐息だった。
気温がそうとう下がっていることに、ようやく息の白さで気づくのだった。
冬ではないか、と思われた。
この医院に行き着くまで歩いてきた道のまわりの田舎の風景は、どうだっただろう、冬だっただろうか。
冬だとすれば、歩んでいた時の周囲の情景がいかにも寒々としていたこともあって、なにもかもがうまく当てはまっているという気がした。
ただ、シルヴィを見つけた時に、彼女の下半身をまばらに隠していた雑草が、泥で少し汚れている様子はあったけれども、夏が盛りに到ろうとする頃のもののように蒼々と焔を上げていたのではなかったかと思われ、それが幾らか気がかりだった。
草の色を真剣に思い出そうとした。
泥の色があまりに生々しかったので、それとの対照で蒼々としているように見えたのではなかったか。
それとも草は、ことにああいう道の傍らに繁っている草は、生命力剥き出しの蒼色をしているものだという思い込みがあるために、実際の色など無視して蒼色を着せてしまったのではないか。
もし枯れた薄く哀れな色をしていれば、蒼を意識のうちで載せるには都合のよい状態ではないだろうか。
どういうわけか、顔が、目に見えないほどのごく小さな虫に無数に取りつかれて蝕まれていくように火照って、頭の中の雑草のかたち(それは一本一本に分かれてはおらず、影絵のように纏まってしまっていた)や、それとは離れて在る蒼色などよりもこちらに近いところにある空間の中を、もし、今、鏡で見たらさもあらんと予想されるような類の頬の赤さが、まるで、ごく薄い色で作られてはいるが光に照らすと霜のような印象を視覚に与えるセロファンを上にゆっくりずらしていくかのように、温かく、甘くさえ感じられるほどにほんのりと立ち上っていった。

(続く)



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