2017年11月9日木曜日

『せせらぎ』 (譚詩1991年作) 1


  谷々に、家居ちりぼひ ひそけさよ。山の木の間に息づく。われは
  (釈迢空)

    
  
えゝ、そうです。あの美しい躰の隅々に、無数の宝玉のように、癌の赤紫の小さな細胞が乱舞しはじめた頃からでした。昼となく夜となく、妻が同じようなうわごとを言うようになりましたのは。
「…せせらぎの音の涼しいこと。きょうも、この小川に沿って、しばらく歩いて参りましょう。戻ってきたら、ゼンマイを炊き込んで、雑ぜご飯にいたしましょうか」
半覚半醒の妻の脳裏に聞こえているらしいせせらぎの音は、ときには、遠くで木を切る音であったり、枯れ葉や枯れ枝の続く山道をゆっくりと踏んでいく足音であったりしましたし、ゼンマイの雑ぜご飯にしても、椎茸のそれであったり、雉肉のそれであったりと、日によって多少の異なりはありましたものの、まるで、いつも山の中の、どこか清涼な地に棲まってでもいるように話すのです。
妻の入院していた病院は、都心の汚れた空気の中の、たくさんのビルの立ち並ぶありふれた一角にあって、サッシの窓を開ければ、車の騒音や排気ガスがすぐにも流れこんでくるようでしたから、こうしたうわごとを聞くたび、わたくしの心は痛んだものです。躰の衰弱に加え、強い薬のせいで、うつらうつらしているか、そうでなければ、いつも意識を朦朧とさせているようでしたが、そんな状態にありながらも、ひょっとしたら、都会の騒々しい、汚れ切った空気の中で死んでいくのを残念に感じているのだろうか、と思われ、あんなにも自然の静寂が好きだった妻の最期に、これではあまりに不釣合いなように感じられ、不憫でたまりませんでした。病院の設備にも、医師や看護師さんたちにも、不満はあったわけではなく、むしろ、とてもよくしていただいて、恵まれているというべきだったと思うのですが、ひとりの人間が、都会の喧騒と汚れた空気の中の白い冷たい病院の建物の中で生涯を終えていくというのは、なにか間違ったことのように思えていたのです。こう言ってみれば大げさに聞こえるでしょうし、わたくしに賛同してくれる人など少ないのかもしれませんが、死に方という点で、いや、死なせ方という点で、いまの人間はたいへんな間違いを犯しているのではないか、と思えてならないのでした。
いま目の前にいる妻のこの命、このたった一回きりの人生は、こんな殺風景な病室で終わっていくことになるのか。死んでいくというのはしかたがないとしても、こんなところで死なせては、なにかとても大事なものが、とりかえしがつかなくなってしまうのではないか…
そうは思っても、この間違った死に方をどうにも避けようはなくて、やがて、このまま呼吸の止まる時が来て、そうして永遠に、わたくしの妻であったこの女は失われていってしまうのか。すべては取り返しようもなく、二度と起こり得ず、非在よりもはるかに恐ろしい、喪失という伴侶が、これからはわたくしに永遠に付き従ってくることになるのか… そんな思いに、どこまでも打ちひしがれていくようでした。
朦朧としながらも、美しい、人の死ぬにふさわしい土地を思い描くことをあきらめず、心に得られた風景の中へと、妻は死んでいこうとしていたのでしょうか。それとも、清潔なすがしい妻の意識はすでに天使のもののようになって、わたくしたちの囚われているこの喧騒と煤煙の世界を軽々と超え、魂の棲まう地方のさまを、ありありと見つめてでもいたのでしょうか。
もちろん、わたくしには分かりようもないことでしたが、いずれにしても、それらが、妻との永遠の別れを覚悟させられたわたくしの想像のうちに、かなしく咲き出でた華であることは確かでした。

(第一章 続く)



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