2017年11月5日日曜日

『シルヴィ、から』 60

 複声レチタティーヴォの連続のみから成るカンタータ叙事詩
 [1982年作]   

  (第二十五声) 3

  (承前)

九月に学校が始まって間もなく、ウィンクフィールドの礼拝堂でドゥニーズに硬貨を贈ったあの友人が、たまたまシルヴィから住所を聞き出してメモを取っていたことを知り、その住所を教えてもらって、わたしはすぐシルヴィに最初の手紙を出すことになるのだが、そんなふうにして、わたしがシルヴィとの長い長い文通を始めることになる日の数日前、八月の最後の日、新たな展開が待ち構えているなどとは知るよしもないわたしは、夏休みもついに終わり、明日からいよいよ、否応もなく、逃れようもない本当の日常が始まることを思いながら、すでに秋の領域に空気が浸され始めていたとはいえ、まだまだ暑い、茹だるような日中を、北向きの部屋の風通しのよいところに寝転んで過ごしていた。
というのも、わたしはあいかわらず夢想の中に生きていて、手を付けたとはいうものの宿題は一向に捗らず、知らぬ間に机に肘をついてぼんやりし始めるので、日中はむしろ、寝転んで夢想に浸り切っていたほうがむしろ得策だろう、浸るだけ浸れば、この自失状態からも存外はやく脱け出せるかもしれないと考えるに到ったのだった。
わたしは開かれた窓の下に頭を置いて、横になっていた。長い間、目を瞑って横向きになっていたが、向きを変えて、仰向けになった。
それまで畳に接していた片方の腕や脇腹のあたりを団扇で仰ぎながら、ふと空のほうに目をやると、真っ青な空に小さな白い雲が浮いているのが見えた。
その白い雲を見ながら、わたしは、印象深かったイギリスの甘い薄紫色の雲を思い出した。
そして、それに続いて、あるいは、それとほとんど同時に、気づいたことがあった。
それは、ウィンクフィールドの空に浮いていた薄紫色のあの雲が、どこかから幻のように出てきて、また幻のように消えていくというのではなく、今、まさに今現在、横になっているわたしのちょうど頬のあたりに、確かに、まったく物質的に存在しているということだった。
それはわたしの額の外に、額とぎりぎりのあたりに、やや耳寄りのところに、宙に飛んだ大きな水の球のようにどろどろと絶えず流動していて、ちょうど、どこかで聞きかじったあの太陽の話、太陽における水素とヘリウムの交代のように、外側の部分と内側の部分との交代をくり返しながら浮かんでいた。目にはそのように見えるわけではないが、そのように浮かんでいるさまがはっきりと感じられた。
そしてわたしは、今さっき、イギリスの雲を思い出した時、あれはじつは、思い出したのではなく、このようにあの風景が存在し続けていることに、わたしの側で気づいたということだったのだ、と思い到った。
さまざまな他の風景や情景、たとえば、あの最初の晩に手を差し伸べた時のあの娘の顔や、食堂でわたしに「ごめんなさいね」と言った時のシルヴィの微笑んだ顔、あるいは落ちてくるバレーボール、沈む陽、「わたしはハンガリーの人間です」という低められた声、日本語の詩集を見てはしゃぐイギリス人たち、見送りの中で何度も飛び上がって手を振っている人、アーサー王の円卓、「どうしてこの人にはまわさないの?」、「いいの、彼はしないでいいの」、最後の晩に差し伸べたわたしの手の微かな震え、いくつかの日本語を教わってわたしから離れて行った萌黄の服を着た娘、通り抜ける風、俯いて編み物をするシルヴィの背の服の皺、走り出したバスのはじめの振動、……それらを、思いつくかぎりのそれらのすべてを、わたしは次々と確かめてみた。
だが、いくつかを除いて、それらは、薄紫の雲のように現実性に満ちて甦ってくることはなかった。それなりの真実味はあるにはあったが、まさに今存在している、今現在起こっているといった迫真性はなかった。いわば、せいぜいのところが、思い出の真実味しか得られないのだった。
ある過去が、現在もそのまま存在し続けているということに気づいたりすることができるためには、その過去にとってのなんらかの条件の整うことが必要であるに違いない、とわたしは考えた。薄紫の雲と、その後確かめたいくつかの情景の場合、きっとそうした条件が整ったに違いなかった。それがどのようなものかはわからなかったが、わたしのほうで意識的に整えることのできるものではないのは確かなようだった。
わたしは、ふたたび、薄紫の雲を見続けた。こちらから用意することができないのならば、こちらの都合に関係なく消えてしまうだろうと思われたので、できるだけよく、この現実に浸っておこうとした。
雲は、よく晴れてはいるが、やや霞がかった空に浮いて流れている。その空は、ごく薄くだが、やはりいくらか紫がかっていて、総じて青紫の印象がある。
目を下げると、空の低いところに、これもまた薄紫がかった長い雲が、いくつも群れのようになって流れている。
微風がある。
もっと目を下げると、眼界に広い緑のウラウンドがひらける。
あまり人はいないようだ。
これは何時だろう。
わたしはどこにいるのだろう。
わかった。
クレイジー・パッティングをやった時だ。
多くの人たちがあの時、合宿所から出て外へ行っていた。わたしは手持ち無沙汰の時間を潰すために、友人とパッティングをやったのだった。
それが終わって、わたしは今、芝生の上に横たわっている。
あの時にはそれほどには感じなかったが、今見ると、イギリスの夏の空と雲はじつに美しい。しかも、心を和ませてくれる。

  (第二十五声 続く)



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