2017年11月9日木曜日

『シルヴィ、から』 64 最終回

 複声レチタティーヴォの連続のみから成るカンタータ叙事詩
 [1982年作]   

  (第二十五声) 7

  (承前)

気がつくと、白い墓標の立ち並ぶ大きな墓地の中にわたしはひとり立ち尽していた。
後ろのほうを望むと、はるか遠くに白い医院が小さく見えた。こんな遠いところまで来てしまったというのが、まるで夢のようだった
弱い風が吹き始めていた。
それにしても、なんて大きな墓地なんだ、と思った。
わたしをここまで導いたあの女性の姿はどこにも見えなかった。
しかし、女性が確かにここまでやって来たことや、それを追ってわたしが来たことの実感を信じて、わたしはしばらくあたりを歩きまわってみた。墓の蔭にでも隠れたのではないか、大きな墓に視野を遮られたために一瞬姿が消えたと見えたのではないか、と思った。
女性を探して歩きまわるうちに、わたしはやがて、墓地の中を横に通う一本の細い道に出た。人がふたりか三人並んで歩くのが精一杯というほどの道だった。
医院の建物は、いくつかの背の高い墓標に阻まれて、ちょうどわたしのところからは見えず、仮に見えたとしても、さっき望んだより以上に小さくなってしまっているに違いないと思われた。医院から望んだ時には、墓地の向こうに草原が見られたのだが、どうやらわたしは、その草原とは違う方向へ墓地の中を彷徨ってきてしまったらしかった。というのも、この道の向こう側にはまだ数限りなく墓標が続いていて、この先、道を横切って歩き続けても、なかなかそれらが尽きそうには見えなかったからだ。
もうわたしには、この巨大な白い墓地がどのようなかたちをしていて、どこをどのように進んできたのか、全くわからなくなっていた。そのために、突然、わたしの前に現われたこの墓地の道は、救いのように新鮮に見えた。
この道は、数日前に歩いてきたあの田舎道に通じているのではないかと、ふと思った。あの田舎道をもっとずっと歩み進んだ場所が、ひょっとしたらここなのかもしれない、とも思われた。
道の中央に立って、その両端を遠く望んでみた。一方の彼方に並木らしいものが見えたが、遠すぎてはっきりしなかった。歩いて行って確かめるにも、いささか遠すぎると思われた。
疲れを感じ始め、寂しくもなり始めたので、墓地の中をどうにか医院へ戻ろうと考えて、その並木らしいものから目を離そうとした時、いくらか自由になったわたしの視覚は、ふと、小さな黒い点を、路上に、並木らしいものよりもずっとこちら側に認めた。
その黒い点に目を凝らすと、それがどんどんとこちらに向かって近づいて来るのがわかった。人のようだった。わたしは道の中央に立ったまま、ずっとそれを見続けた。
いくらも経たないうちに、それが確かに人であることがはっきりとわかるようになった。黒い服を着ており、黒い頭をしているように見えた。はじめ、それは黒髪かと思われたが、もっと近づいて来るに従って、頭の黒は髪ではないのがわかった。それは頭を覆っている黒い頭巾だった。黒頭巾を被った背の低い人がこちらに向かって歩いて来るのだった。
  「夢を見ていらしたのね」という看護師の言葉が思い出された。
夢?
いいや、違う。違いますよ。それは確かに違う。
やはり、夢などではなかった。
シルヴィを見つけてから、いったん、往来の中央に出て道の彼方を望んだ時のことが脳裏に甦った。
あの時、道には誰の姿もなかった。わたしが予想したように誰の姿も見られなかった。
ところが、それが今ははっきりと見られるのだ。
シルヴィを見つける前にすれ違ったものが、今、向こうから、そのもののほうから、ふたたびわたしのほうへとやってくる。
今や、疑うべくもなかった。
老婆はすぐそこまで来ていた。
それはまさしく、あの時の老婆だった。
同じ黒頭巾、同じ背格好、同じ顔、同じ歩みだった。
シルヴィを見つけることになる少し前にわたしが見たように、今もまた、老婆は、まるで、人間の姿を借りて時間というものが現われる場合にはこう歩むのだと言わんばかりに、取り返しのつかない確実さで足を一歩一歩踏み出して来るのだった。
わたしは立ち尽していた。
顔も体も動かすことなく、目だけで老婆の接近を追っていた。
全身に鳥肌が立って、引き攣るようだった。
わたしの傍らまで来ても、老婆にはなんの変化も見られなかった。老婆はただただ歩き続け、わたしに近づき、ほとんど接触しそうになるまで近づき、体にばかりでなく、なにかもっと取り留めのない大切なところにまで、限りなく近づいてくるようだった。
だが、実際には、ついに、肩をわたしの袖に擦ることさえしなかった。
やがて、老婆を捉えるわたしの目路の広がりは限界に達した。視界から老婆の姿は消えた。
 老婆がわたしとすれ違って、他ならぬわたしの背後へと永遠に去っていくその瞬間、わたしは、自分が厚い毛の外套を着ており、片手には畳んだ傘を握り、よく乾いていたはずの靴にはいつの間にかふたたび水が滲み始めていることに気がついた。
恐怖を紛らすためか、それとも、寂しさに目を瞑るためにか、ひょっとしたら、耳が聞こえなかったかもしれない老婆に対して、わたしは、もちろん並木らしいもののほうにあいかわらず向いて体を強張らせたまま、あたかも彼女がわたしの身に起こったすべてを見知っているかのように、こう呼びかけてみようかと思った。
おばあさん、わたしの赤革の鞄はそのままにされていましたか?
あと、あれだけが足りないんですよ。
他のものはすべてもう整っているんです……
 わたしは呼びかけなかった。言葉がまさに舌をついて出ようとした時、自分がおそらく、ひとり者でも孤独でもないことが突然思い出され、思い出されたそのことが、わたしの胸を、夢を、感性を、あらゆるものを激しく締めつけ、絞り圧したためだった。
一刻もはやく並木らしいもののほうへ、鞄のところへと行き着いて、長い間忘れていたことを、あの鞄を開けるということをしてみよう、とわたしは思った。
本当に久しく開けることがなかったので、あの鞄の中になにが入っているか、そして、なぜあの鞄を持って歩いていたのかを正確には思い出せなくなっていたが、しかし、思い出すということより以上のいっそうの明らかさで、それらを予想することができるようだった。
誰であったか忘れたが、とにかく、誰かわたし以外の親しい者によって詰められたあの鞄を開けさえすれば、わたしがいったいどこから来たか、戻る時にはどこへと戻って行けばよいのか、さらに、これからどのように歩いて行けばよいのか、といったことがわかるに違いない。せめて、その糸口だけでも得られるだろう、と思われた。
長い間わたしを待っていた者が、
  「あなたの姿かたちはすっかり変わってしまった。顔立ちも肌の色も、そして髪の色も、話す言葉も……」
と言いつつも、なおも十全の理解のうちにわたしを抱擁してくれる幻が、ふと頭に浮かんだ。
もはや、老婆に鞄の有無を訊くことは問題ではなかった。鞄の有無を人に訊いて確かめようとすることを止めて、自らその場所にまず行ってみることこそ必要事だった。
もし鞄が無くなっていたならば、探すことから始めればよい。
この道の向こうのあの並木らしいところが、もしわたしが鞄を置いたあの場所でないのならば、少し回り道をすれば、かならずどこかこの近くに並木道のその場所を見出すことができるだろう。

 こうしてわたしは歩き出したのだった。
声よ、語ることを促した者よ。
念のために言い添えておけば、空がさっきより暗くなったとはいえ、あいかわらず雲ひとつない静かな上天気は続いていた。
つまり、今まさに脱け出ようとするこの物語に、わたしがふたたび以前と全く同じ状態で引き戻されることは、おまえが持ち出してきたあの特有の嵐の条件が欠けているゆえに、明らかに、けっして起こり得ないということなのだった。

(『シルヴィ、から』 終わり)



引用について

 本文中、第二十一声のシセル篇に現われる「待ってる、待ってる、待ってるさ」は、『ランボーの生涯』(マタラッソー、プティフス著、粟津則雄・渋沢孝輔訳、筑摩叢書)によった。
 ネルヴァルの『シルヴィ』の最終部分の引用は、筑摩世界文学大系第86巻〈名作集Ⅰ〉に収められている入沢康夫訳によった。



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