2017年12月2日土曜日

人生なき文芸よさらば。ね、太宰さん?

 [2000年6月作]


先日お話申し上げましたように、わたくしには…………
まったく、友がございません……………  そして冬…………
あなたさまの証書が必要でございます……………

だいぶ昔のこと。ダ・ヴィンチがこんな手紙を有力者に書いたのは。
その後、世界に「友」は現れたのだろうか、

否。
と、カール・シュミットなら言い続けているかもしれない。「友」が現れていれば、
ナチスの運動はもっと違っていただろうし。
「友」をすっかり失っていた、あの頃の、ドイツ。

(ソレニシテモ、

そして冬…………
  あなたさまの証書が必要でございます……………

とは、
美しい、さびしい、ことば
レオナルドに友がいなくてよかった、と思う、ほどに。
吹雪のあとの静まった、疎林、が、見える、ような気がする。
友のいない冬、恩寵、
そんな冬、に見る雪景色は、ひとりの人間の、存在を、きっと、変え………
いつか、輪廻のなかで
ひとはそんな生涯を生きねば、ならないらしい。

(あなたに友は、いますか、いま?)

(ならば、すべての失われる、ときが、いつか、あなたに来る。)

(あの頃の、あそこの、ユダヤ人たちに来たように。あの頃の、あそこの、  南京人たちに来たように。広島人に、長崎人に、ユダヤ人に追われたパレスチナ人たちに、………ふふふ、 物語でも、伝説でも、いいの、それは、問題、では、ない、)

(ワタクシ、なにも、忘れて、いない。……………)


友とはなんだろうか、と、青年のような疑問、まだ、持って、いて。

用もないのに手紙をよこしたり電話をかけてきたり
話しあうこともないのに飲みに行ったり行かなかったり
というのが友についてのぼくの定義。


だから
ぼくは多くのひとにとって友だと思うけれど
ぼく自身にはひとりの友もいない、と思う(ほんとに、ひとびと、は、…………)
だから
ぼくはぼくの無価値や魅力のなさについてだれよりも考えるほかなかった。
なにもかもぼくのこしらえた定義から来て、は、いる。
定義は
たいていはアメリカのつまらない映画からかたちをとってきて。

つまらないものが
いつもぼくの人生の登場人物たちによって貶されてきたから。
そう、ウィトゲンシュタインだけ
だな、つまらないものを誉めてたのは。
「アメリカのくだらない映画からは、いつも多くのものを学んで
きた」と、彼、言って
いた。
大学でのむずかしい真剣勝負の哲学講義のあと、ポップコーンなどを買い込んで
アメリカのくだらない映画ばかりを選んでいちばん前の席に坐り
ながくながく、いつまでも身を沈めていたんだそうだ。


ろくな仕事もしていないしお金もないし人脈もないので(あっても敢えて利用しないので)
ひとびとがどれほどぼくを捨てていったかをぼくはこの数年よく知った。
自己紹介にも窮する。ものを少し書いていますというと、
へえ、本を出しているんですか(ダシテナインデショ、ドウセ?という目で)と来る
いいえ、なんにも出してませんと自負をもって言うと
まあ、あれですね、ご自分で好きでやっているなら………、と。
仕事のはなしをしても同じことだ。


ひとというのは、ようするに、ぼくをとにかく低めたいのだとよくわかった。

他人にどうにか差をつけたいひとたちの、人類。
そんなところで、まだ、
やることが
あるかな、
   なにか。
ほんとうに。


もっとも低い、みすぼらしい、
貧乏で軽んじられて、わるい紙とぼそぼそのペンしか持たない「詩人」に
それでも少し期待があるようなのは
どうしてかしら?
ちかごろではそんな「詩人」も神話だが
ワタクシはいまとなっては神話のなかにいるようなもので
したがってそんな「詩人」に邂逅する可能性もまだ残されているような気もする

「詩人」は幸福な不幸の海を逝く小舟、

ヴィヨンさん、来て!
教授詩人たちの文芸廃棄物の山を越えて、

そして、「友」のお話はどうした? / (いや、続いていますよ、ちゃんと。
「友」の話をずいぶんと問題にしていたのは
ぼくの知るかぎり、いつもロマン主義者たちだった。
シャトーブリアンがいちばん真っ向から取り組んだと思うけれども
あまりそれを話題にするひとはいない。


ずいぶん時代が経ってからぼくが問題にするなら、
ぼくはやがては超ロマン主義者と呼ばれるかもしれないな。
いいじゃない、超ロマン主義、シュールロマンティスム、
商標登録にしようと思います。
写実にもツメタイ方法主義にも飽き飽きしていて
わたくしはしだいに本質へと帰っていく。
人生なき文芸よさらば。
ね、太宰さん?


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