2018年1月19日金曜日

ロマン主義に陥ることのない純バロックに


イムジチのバッハを
ひさしぶりに聴いたら
いい演奏だった
感じ入って
ため息が出た
からだを忘れて
聴き惚れてしまった

バッハが好き過ぎて
奏者の違うCDをたくさん買い続け
聴き続けた三十年ほどの
人生だった
わたしはバッハを聴いていただけの人です
そう纏めてしまってもよい
もちろん殆どのクラシックは聴いたけれども
バッハだけを聴いて過ぎた人生です
やっぱりバッハだけでしたね
それがわたしの人生だったのです
そうきっぱりと纏めてしまいたい気がする
強くする
この単純なまとめ方の寂しさに戦慄する
戦慄したい
し続けたい

古楽器演奏の名手が後から後から出続けた時代だったので
イムジチのような演奏は滑らか過ぎ
あまりに普通すぎて
長いこと
ほんとうに長いこと
つまらなかった
レオンハルトかクイケン兄弟か
それともピノックか
ぐっと軽く攻めてくるトン・コープマンか
バッハの再来といわれたリヒターか
ラインハルト・ゲーベルのムジカ・アンティクア・ケルンか
どこか貴族的に奇矯に外れたアーノンクールか
などと思い続け
なんと多量の時間をCDショップの棚の前で過ごしたことか
古樂クラシック好きの知りあいたちとは
どれを聴いただの買っただのと自慢しあい
まだウォークマンがカセット仕様だった頃
少なくとも五台を聴き潰し
MDウォークマンも二台は聴き潰し
最後にCDウォークマンを三台ほど使いながら
遠いあちこちの職場への行き帰りに日に3時間以上は聴き続けた

家から一歩外に出ればイヤホンをつけて
バッハのなにかを
とりわけ管弦楽曲やチェンバロ協奏曲や受難曲を聴いていた時代が
ふいに終わったのはいつ頃か
それをここに記す必要はないけれども
聴いていた音楽でいえば
ドホナーニの指揮するマーラーの第6番にのめり込んだり
それと比較して聴いたブーレーズの演奏も素晴らしくて
くり返し聴き直したものの
インバルの演奏は意外と弱いと不満に感じられたり
それから程なくして
シュヌアーの演奏によってベートーベンの
後期ピアノソナタを再発見させられ
特に第28番と第29番“ハンマークラヴィーア”は
運命の神の啓示のように響いて来て半年は聴き詰めになり
たしかにその時期
運命はほんとうに大きく旋回しつつあって
血を絞るような別れがいくつか続き
数年間の精神的空白へとなだれ込んで行きつつあった
何ごともないかのように日常生活を送っていたのが
いま振り返ると戦乱の中の小さな奇跡のようだが
ほんとうに不思議なものだ
中也ではないが
思えば遠く来たもんだ*
などと
ふと洩れそうになる

脳の細胞の隅々に沁み渡らせるように聴き込んだ
バッハの曲といえば
フィリップスから出ていたトン・コープマン演奏のチェンバロ協奏曲集で
BWV1060
BWV1061
BWV1062
BWV1063
BWV1064
BWV1065
が収録されていた
アムステルダムのワールセ教会での1980年の演奏で
2台、3台、4台のチェンバロ演奏のために
ダヴィット・コリヤーやティーニ・マトートや
フリーデリケ・エルンストが参加していて
アムステルダム・バロック管弦楽団が加わっている
2枚組CDだったが
これには徹底的に世界を変えられ
世界の見方や聴き方を変えられ
生活とのつきあい方を変えられ
半年後から対人関係に激変がもたらされた
寝ても覚めてもこの2枚組を聴き続け
脳細胞のほとんどが変質したと感じられたあたりから
わたしの中のロマン主義は終焉し
シュールレアリズムは瓦解し
写実主義は剥がれ落ち
自然主義はもともと装っていなかったがさらに遠ざかった
思考法や感受性はおそらく
ロマン主義に陥ることのない純バロックに総変貌した

その頃愛欲のかぎりを尽したショパン弾きのピアニストとも
翌年には劇的な破綻を迎えることになった
破綻直前の晩秋
信州への旅のさなかの車中で
彼女は練習中のショパンのバラード第4番の自分の演奏の録音と
やはりショパンの舟歌の自分の演奏の録音とを掛け
わたしに批評や感想を求めたが
数分だけ聴いてわたしはカセット止めて取り出し
自分のウォークマンに入れてあった
コープマン演奏のバッハのチェンバロ協奏曲のカセットに入れ替え
かけ始めた
「ショパンは後で聴くよ
「今はこっちのほうが聴きたい
「この夕暮れの薄霧の中を走って行くのにはバッハのほうがいいよ
そんなことを言って
チェンバロ協奏曲を聴き続けた

これはショパン弾きの彼女にとっては決定的だったのだろう
なんと残酷なわたしだったか
と今は思う
しかし彼女のショパン演奏を聴かないと言ったのではない
後で聴くと言った
そうしてバッハに替えた
夕暮れの薄霧の中ではわたしにはバッハだった
コープマンのものだけではなく
アーノンクール演奏のヴァイオリン協奏曲も録音してあった
妻アリス・アーノンクールのヴァイオリンがいい味を出している演奏だ
美しく
さびしく
孤絶の震えが全編に漲っている
聴きながら
「信州には合うなあ
「バッハの古楽器のチェンバロやヴァイオリンは合うなあ
思いながら
言いもしながら
黙って聴いている
聴かされている
ピアニストの
わが生涯の最高の愛人の
不思議なほどの芳香を発するからだの熱を
存在を
すぐ脇に感じ続けていた



*中原中也「頑是ない歌」
「思えば遠く来たもんだ
   十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気は今いずこ」



0 件のコメント:

コメントを投稿