2018年2月14日水曜日


 
長年の友に
読みようによっては別離状とも受け取られそうなものを
送ったばかりなのである

数十年
こちらからの手紙には数か月後の返信
場合によっては
年にクリスマスカード程度

すぐに返信してほしいとまではいかずとも
話題への反応が三か月も六カ月も経ってから来るようでは
ようするに友とはいえない
それを友であるかのように扱ってきたのは
たんに外国人だからで
そこには何かの時に役立つかもしれないとの
こちらの計算もあった
ようするに
いよいよ友とはいえない

ほそぼそながらも
長年のやりとりを続けてきた懐かしみのようなものは
たしかにあるにはあった
時には時間をずいぶんかけて
むこうの言葉で
事細かに手紙をシタタメたりしてきたが
返ってくるのは型に嵌った挨拶文句程度で
ちょっと冷静に見直せば
どうみても友とはいえない

もう若くはないとなってくれば
長年のむこうの反応のいい加減さは
ずいぶん大きな不愉快事となってのしかかって来る
まじめに考えてもしかたないので
だんだんこちらも紋切り型の文句でカードを送る程度になっていく
それが十年も続くと
この関係っていうのはなんだろうかと思う
日本でのただの年賀状つながりのようなもので
相手にとってこちらが大事でないのはとうに明白だが
こちらにとってもかつての一時期の思い出のよすが以上のものではない

昔はずいぶんと美人で
会いに行くのに若い時代の労力も金銭もずいぶん浪費したが
むこうに娘もふたりでき
仕事も持って田舎に定住し中年になってみれば
たまに訪ねていく時の便利な宿舎のおばさんでしかなくなる
それはそれでかまわないが
その国の中でもとりわけ辺鄙な場所だとなれば
首都からそこへ行くのは東京から長野の奥地に行くようなもので
それだけの時間と運賃をかけていく価値があるかといえば
そんなものはどう考えてもまったくない
じゃあ首都に出てきてくれさえすれば会えると書き送っても
首都の非人間的な雑踏は耐えられないとかいうので
ようするにこちらから下って行くしかないことになるが
必要もなければ金も時間もかかる外国の田舎旅など
もうやっている暇はこちらにはないのだとなれば
今生での再会などもうどうでもよいと見切っておくのが
まぁ生きる上での知恵ということにはなる

若い頃は友というものも友という概念も
ひと一倍大事に考えていろいろと苦労もし続けてきたが
ほとんど消えてしまった
というより
ひとりももう残っていないあの頃の“友”とやらを思い出すと
ちゃんと連絡を取り合うとか
小さな約束をちゃんと守るとか
その程度のことからして守ることのできなかった
どれもろくな人間ではなかったことが
いまになるとありありとわかる
そういう人間たちがまわりから完全消滅していったのは
考えてみれば寿ぐべきことだが
もっとはやくに消えていってくれれば
人生時間はもっと無駄にしないで済んだことだろう

いわゆる飲み仲間のような人間たちは
後から後から現われ続け
不足はしないが
そういう人たちを友となど呼びもせず認識もせず
どんどん入れ替わって行くだけの
その場その場の風景と見ることができるようになってみると
というものを大事にしたがる若い時代というのは
あれはあれで一種の病の時期かと思う
いつどこで飲もうか
などと約束しあう間柄では
Whenwhereの共有だけは重要な関係線で
人間どうしの関係では
ようするにこれだけちゃんとしていれば十分なのである
たったこれだけのことさえ
昔の友たちの間ではろくに守られたことがなかった
そんな程度の人間たちを
などと
御大層に大事にして
要らぬ苦労を背負った貧しい青年時代だったと
あの若かった頃のすべてを反古のように心の中で破り捨てながら
人目には見えない総括をしている



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