2018年3月21日水曜日

溶けゆく尽きぬ潤いによってかなしみも潤ったかなしみとなり


桜の開花も始まってからの雪となったので
あゝ、なごり雪…と思い
Youtubeで「なごり雪」*をさがして聴いてみながら
以前思いついたこの歌の内実が
やっぱり本当だったと
いよいよ確信されてくるようだった

「時がゆけば 幼いきみも
「大人になると気づかないまま…

ここにこの歌の秘密はあって…

秘密
といっても
おおやけに歌われてしまっている以上
露わなのだが…

大学生時代の終わり
卒業
春のおとずれ
仲の良かった学生どうしの若い男女の別れ…

それらを扱ったかと思われるこの歌は
しかし
「時がゆけば 幼いきみも
「大人になると気づかないまま…
の二行の書き込みによって
じつは
はるかに年上の男からの歌なのだとわかってしまう

大学生程度の年齢では
男たちは女たちより一般的にはるかに心も精神も幼い
それにも関わらず
男が「幼いきみ」と言い
彼女が「大人になると気づかないまま」と歌うのも
年上の男だから

お互いに「幼」かったと思ってきていたが
ふいに成長した相手に気づく
という
そんな理解ももちろんあり得るし
たぶんふつうの聴き手はそう捉えるはずだが
本当にお互いが「幼」かったのなら
男は女を「幼いきみ」と思い続けてきたはずもないから
女を「幼い」と捉えられるだけの
覚めてもいれば
経験も多く重ねてきていたはずの男が
やっぱり語っているということになってしまう

女を「幼い」と思うのは年上の男の習い性のようなもので
しょうがないなァとか
いつまでもこんなじゃナとか言いながらも
それを本当は嫌ったり困ったりするわけではなく
幼いままでいてくれるのを楽しむところもあったりする
そんな気持ちが
女が大人にならないでいてくれるといい
という男の中の思いの存在を
ほかならぬ彼自身の目からも覆い隠したりもする

「幼い」と見えていて
さほど「きれい」でもなかった「きみ」と
(「去年よりずっときれいになった」などとフォローしてはいるものの…)
「ふざけすぎた季節」が続いてきていたけれども
彼女はいま東京を去ろうとしていて
汽車も出ようとしている
「季節はずれの雪」が降っていて
「幼」かったはずの「きみ」の口から
「幼」さをふいに捨て去ったかのような口ぶりで
「東京で見る雪はこれが最後ね」
と洩れる
いくら「さみしそうに」呟かれたところで
「最後ね」のこの「ね」は
男を同等に見るどころか
自分のほうが判断力において上位かもしれないという
自信から発せられる終助詞の「ね」でさえあり
「ふざけすぎた季節」など
もはや一緒に過ごしようもない女となりおおせた
あかしの「ね」でもある

こうして男は置き去りにされていく

はるかに年上の男が
幼いと見えていた若い女の
成長と美しい変貌とを目のあたりにし
汽車が出た後のホームになおも残ったまま
落ちては溶ける雪を見続けている

あたらしい春が来て
女が大人になりきれいになったとしても
もう
その成長ときれいさには
男は関わることができない
彼女はその成長ときれいさを
男とはべつの対象にむけていくことになるだろう
落ちては溶ける雪を見ながら男はそのようにも思い
ふと痛切なかなしみに胸を貫かれるが
それでも
落ちては溶ける雪の
その
溶けゆく尽きぬ潤いによって
かなしみも潤ったかなしみとなり
男にも
春は
来ようとしている





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