2018年4月17日火曜日

『アヒル小屋の光景』



連続している
というほどでもないが
この頃
知りあいの訃報に
よく接するような気がする

昨年の秋から逝った人を数えると
もう片手の指では足りず
やっぱり
これは多いということなのではないかと
気づき直す

それにしても
他人の死に驚くという気持ちにも
老いというようなものが
あるのか
あの人が死んだ
この人も逝った
などと耳にしても
なんだか
もう
驚きもしないし
さほど悲しくもならない

死を包装する物語のようなものが足りなくなっているのか
包み紙の品質が落ちてしまっているのか
そう訝ったりもする
死ぬ前にはどうだったのか
こんなふうだった
あんなことを言っていた
そんな物語が
じゅうぶんに伝わってこなくなったからか
それほどに
世の中にはもっと人目を惹く他の物語が溢れ
それ以外の物語など
結局どれもこれもが“大したことのない”等価の情報となって
もう耳もこころも
あっぷあっぷだからなのか

高校時代に習った国語の先生のひとりは
どうしようもないほどの酒飲みで
芭蕉の足跡を訪ねての文芸部の合宿ということで
連れられて夏にいっしょに行った比叡山でも
先生みずから持ち込んだ酒でそうそうにひとりで酔ってしまい
深夜に学生たちを起こしに来て
おい、おまえら、酒が足りないから買ってこい!
とたいへんな荒れようだった
酒を買って来いと言われたって
天下の比叡山のどこに酒屋があろうものかと
ずいぶん学生たちは困惑したが
中にはこんな時に機転のきく奴がいて
「わかりました、先生
「とはいっても比叡山にいるんですから
「手に入れるべきは般若湯というやつでしょう?
「こんな深夜に山に入って行って
「ちょっと天狗どもにたずねてみないといけません
「手に入れるのは至難の業ってやつでしょう
「まぁ、いろいろ準備もありそうなんで
「やっぱり三万円ほどはかかるんじゃないかと思うんですが…
とかなんとか言って
先生が酔っ払っているのをいいことに
一万円札を三枚見事にせしめ
そうして旅館内の自動販売機で
缶ビールだのコップ酒だのを三十本ほど買い
それだってけっこうな出費だったが
それでも二万五千円ほどは学生たちの手元に残って
あとで皆で山分けしたことがあった

さてと…
これは他人の死の話で始めた書きとめだから
死のほうへ
また
戻らなければならない…

この時の飲んだくれの国語の先生は
私たちが卒業したのち何年も経ってから
やっぱり肝臓をこわしてしまい
仕事も続けられなくなって自宅療養することになった
肝臓ばかりでなくアタマのほうにも
どうやら酒の毒はまわってしまっていたらしい
とある夕方に他の国語の先生が見舞いに行くと
家には居ずに団地のアヒル小屋の前に行って座っていた
アヒルたちに向かって声を上げている
「アヒルになにしゃべってるんです?
と見舞いの先生が聞くと
「こいつら、なかなか覚えが悪いもんだから
「こうして毎日、くりかえし教えてやってるんだよ
そうしてアヒルたちのほうに向き直ると
「み・み・みる・みる・みれ・みよ
「こ・き・く・くる・くれ・こ・こよ
などと古典文法の動詞活用を大声で言い聞かせ始めた
「ほら、あいつはよそ見してやがる
「こっちのやつは眠ってやがる
動詞活用だけでなく
「あり・をり・はべり・いますがり・みまそかり
などと
夕陽を浴びながら
ラ変動詞の種類まで教え込もうとしたりもして…

日本古典の読み巧者だった
この飲んだくれ先生は
アヒル教育に専念していたその年の暮れに亡くなったが
この訃報に接した時
夕陽をあびながら団地のアヒル小屋で
アヒルたちに熱烈に古典文法を教えていた光景は
私自身が見たことでもないのに
強烈に眼前に浮かび
他人の死というものを
他人の死どころではない強さで印象づけられたものだった
『海辺の光景』*ならぬ
『アヒル小屋の光景』とでもいうものを 
いつか立派に書き上げて
旭昇平先生に献じなければいけないのではないか
と思われたものだった



*安岡章太郎『海辺の光景』



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