2018年7月22日日曜日

しあわせ感覚



詩というと
知性や理性のやや鈍いようなひとびとに
かんたんに語りかけるように書かれたもの
という了解が
どうも今の日本にはある
あるまゝだ
と感じる

二十世紀終わり頃
ポストモダンの潮流のさなかで
日本の詩は理性的遊戯の頂点に達した面もあり
当時の現代思想の最先端に敏感に反応できないひとびとには
まったく対応しようのない言語表現体となっていた
かんたんに語りかけるように書かれたものでも
じつは思想的な皮肉や裏打ちに張り巡らされていて
表面の字面通りに読んだのでは
完全な誤読に堕ちていく他なかった

文芸は古典に通じた者たちの遊戯の場であり
知と最高感性の社交の場であり
時代批判の最高度の場であり
同時にナンセンスと無とがぴったりと字義に重なる場だが
そんな事情のまったく読みとれないひとびとをも
表面的な字面のみで楽しませ得ないと
残念ながら最良の作物とは呼ばれ得ないという黄金のルールがある
『フィネガンズ・ウェイク』であってはならず『老人と海』であること
『嘔吐』よりは『異邦人』であること
塚本邦雄よりは寺山修司であること
そんなルールが文芸の作者たらんとするものには課せられている
さらにいえばシェイクスピアを超えられるかどうか
超えられないものはどんな労作をしても忘れさられるのみ
正宗白鳥が言っている批評は恐ろしくも正論で
どんなに苦労して書いたってダメなものはダメということ
どんなに大問題に取り組んで方法意識満載で書いたってダメ
ちょっと本を読むのが好きかな、という程度の読者層に
終わりまで快感を与えながら人類の大問題のフリカケをピリッと効かせる
そういうような出来具合でないかぎりは

だから
結局この国では
詩といえば
いつまで経っても中也で光太郎で藤村で俊太郎で
ほんのちょっと賢治で(雨ニモマケズ…のみ)
後は日本文学科の先生や学生の知ったかぶり用テキスト
戦後詩なんてもう誰も読まないし
現代詩なんて壮大な無駄事の堆積
選集にだいたいひとり一ニ編もあればじゅうぶんで
後は万葉集以前の膨大な歌集群のように消滅していく運命

♪呼んでとどかぬひとの名を
こぼれた酒と指で書く
海に涙の
あゝ、愚痴ばかり…

森進一の
いや、深津武・なかにし礼の
「港町ブルース」を鼻唄してみると
あゝ、にっぽんの戦後の詩は
こちらのほうにこそあったんだな
と気づかされ
ならば
なんと豊かな詩の時代であったか
戦後の昭和は
そして、平成は
安堵させられるような
気にもなって

なんだか
立派に
知性や理性のやや鈍いようなひとびとに
吾輩もなっていくような
しあわせ感覚



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