2018年8月22日水曜日

あり過ぎる



金子光晴の『鬼の児の唄』の初版を見つけ
壱万円も値が付いているものだから
ちょっと恐る恐るページを繰ってみる
昭和二十四年の十字屋書店発行のもので
各ページずいぶん厚い紙を使っている
アジアの手漉き紙のようで文字も大きい    

あ、つまらないナ…
光晴さんには悪いけれど
もっそりもっそり捲りながら思う
ことばも字づらも汚なくっていけない
バカ言ってらぁ、汚ないってのは最上よぉ
と光晴さんなら言って返してくるだろう
“きれいな”“うつくしい”詩なんて
もちろん見られたものじゃないのだから

どうしようもないほどのこのつまらなさは
けれどもなんなのだろう
ひょっとして硬質の詩的冗談なのかナ
時代が過ぎてしまったってことさ…と
こころの上っつらがやや大声で言う
天下の金子光晴もことほどさように
時代に捨て去られたって証左なのさと

時代批判や日本批判なら光晴さんに習えと
まずは誰からも言われた頃にザバッと読んで
なるほどやっぱりスゲェやと尊んだものの
だんだん読まなくなっちゃったから
随筆散文のたぐいはぜんぶ売り払っちゃって
詩集だけは残してあるが偶に見ると
生硬過ぎたりデドデド過ぎたり
いよいよ開かなくなってきていたところへ
この『鬼の児の唄』初版遭遇である

川端康成が明治文学を嫌ったのは有名だ
やはり字づらが汚な過ぎて読めない
といった理由だったと思う
川端の文章の字づらだって意外と汚ないが
いったい字づらの汚なさうつくしさとは
なんだろうか漢字かなカナの振り分けぐあいか
それとも副詞や形容詞の散らしようか
とつらつらつらつら考えているいつもいつも
いつもいつもいつも考えている

横文字ばかり読んでいる時などフッと日本文を
読んだりするとどれもこれも汚なく見える
汚なく見えるというだけで事実がそうだという
わけじゃあないんだが
やっぱり
漢字かなカナの使いわけぐあいかしらん?
だとしたら
ゼツボウテキじゃん?
日本語?

というより
もっと進んで
文字はどれも醜い
どれも汚い
そう思えてならない時がある

あり過ぎる



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