ことばのこととなると
多く費やす側のほうが優れているとでも
思い込まれる場合が多いが
しかし
受け手となるほうが
はるかに
高度に優れているとぼくは見ている
語られ
記されたことばは
受け手にとっては現象であって
聞いたり
読んだりは
どう怠惰に行おうとも
まったくこちらのものではない
まったくの他者の
現象の
探索となり
解読の試みとなる
語り
記すことは
科学とはなりえないが
聞き
読むことは
どう怠惰に行おうとも
科学のはじまり
他者や異物と向きあう時にのみ
知ははげしく動きはじめ
その時
あれほどさまざな宗教神秘主義が求めてやまない無我が
いやおうなしに発生する
知は
無我の瞬間にしか働くことはないから
手にとられなければ
本は
ただの場所取りの厄介物
手にとられ
黒い線のシミを前にして知が発動する時
異次元がはじめて開ける
ことばを
ことばとするのは
受け手のみ
受け手がみずからのことをすべて捨てて
知の降臨を受ける時のみ
…なんと
古い読者論の一端か
しかし
こんなことも
ときどき
誰かが思い出さないと
すぐに
忘れられてしまい
語り手や
書き手ばかりが
不用意に
称揚されてしまったりする
どこまでも
対話
でしか
ことばは
ことば
たりえないことが
奇妙なヒロイズムから
忘却されてしまって
0 件のコメント:
コメントを投稿