2019年1月6日日曜日

イン活、ツイ活、顔活…



あゝした遊びはみんなやってみた…
ル・クレジオ 『愛する大地』

   アッギヴェッサナよ、私はこのように弟子たちを戒める。このように頻繁に語る。
  「比丘たちよ、色は無常、受は無常、想は無常、行は無常、識は無常である。
   比丘たちよ、色は無我、受は無我、想は無我、行は無我、識は無我である。
   すべての行は無常である、すべての法は無我である」と。
バーリ仏典中部35 Cūḷasaccaka Sutta

  「一切の形成されたもの(行)は無常である」(諸行無常)と
    明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦から厭い離れる。
    これが清浄への道である。
バーリ仏典、ダンマパダ20


収集癖のほとんどない私にも
少年時代の切手集めや成人後の絵葉書集めに顕われたような
無意味な少量の収集悪癖は潜んでいて
ネット社会になってからはそれを
Instagramtwitterfacebookへの写真保存・掲載行為をすることで
いっそう炙り出そうと試み続けている
保存・掲載する写真はほぼネット上で見つけた借り物であり
ネット界という他人だけからなる異世界の看板に
他人がもっとも浮薄な部分を思慮も足らずぶつけ続ける空間の看板
よりにもよってそのネット界からだけ引用した写真という
他者の他者の他者の顔を貼り付け続けるわけで
この行為には
自己とか
ましてや“真”の自己とか
真実とか
価値などという幻想は紛れ込みようもない
刹那的に綺麗に思ったり
すこし心を奪われたりする写真を
ほんの少しダウンロード保存したり掲載したりする程度では
気づかないで済んでしまう
ネットヴィジュアル情報に潜む壮大な偽りも
続ければ続けるほど化けの皮は剥がれ落ちて
写真を見つけてはダウンロードして
さらにそのうちから選んで自分のページに貼り付けていくうちに
炙り出されていくのは
ようするに
いまこの無益なさびしい行為をし続けようとする「自分」なるものの
動きと方向性の核を占める容易には説明しかねるエネルギーで
そのエネルギーは人智を超えており
社会の中で従順に生きようと“も”する個体の統御能力を超えており
何万回も何億回も転生を惹き起す魔的な力にじかに
あくまで情報的にのみだとはいえ
アクセス可能な不可視の流れである

たまには
「自分」の物理的時間と物理的空間のなかで遭遇した
風景や光景を撮ったものを混ぜてみるが
すこし反省してみればわかることだが
「自分」の物理的時間と物理的空間のなかで遭遇したものはすべて
「自分」でなどない偶然性の産物にすぎないのだから
ここから得られた写真にしても「自分」とは深い連関はない
あゝ なんと多くの芸術や文学や哲学がこの点を誤認したまゝ
あたかもなにかを思考し得たかのように
あたかもなにかを「表現」(!なんと愚劣な印籠的言辞!)
できたかのように
無意味な紙と製本業のエネルギーの無駄遣い路線を突っ走って
偉がっていることよ!
言葉やイメージでなにか染みや汚れや傷を地球上に残すことが
まるで御大層なことだと
いまだに信じ切っている地球破壊の従順な老若男女のナチスどもよ

Instagramtwitterfacebookに集まる意識たちはみな
見て!見て!ワタシ!系のみであり
あわよくば
他人の関心を惹くことでもっと物質的裕福を手に入れちゃおう系でもある
こうした意識の傾向は
少し古い言い方をすれば
プチ・ブルジョワとしてしっかり認知されたい連中ということになり
どの時代であれ
その時代の金まわりのいい連中に媚を売って
自分もさらに金まわりよくなりたいということだけを
連中のときどき言う
「魂」
とやらの奥底にどろどろさせているだけのこと
ただそれだけの意識たちで
ここからはなにひとつ
連中自身の欲望を満たすような出来事も出ては来ない

見て!見て!ワタシ!系も
他人の関心を惹くことでもっと物質的裕福を手に入れちゃおう系も
しばらくInstagram活動やtwitter活動やfacebook活動を
―おっと、略そう!
イン活、ツイ活、顔活…ぐらいでいいかな?
これらの活動をちょっと続けてみるうち
見てもらえるのは
注目してもらえるのは
やっぱり一段も二段も飛び抜けた美人だったり
早起きして満員電車に乗って勤めに出なければならないようなレベルに
人生のはじめから位置しておらず
高校卒業祝いに手はじめに
40平米ほどのマンションを贈られるお嬢様であったり
毎週あたり前に一回分10万は超える美顔エステに通える生活であったり
しなければならないのがしみじみとわかってくるはずで
そうなってくると
見て!見て!ワタシ!系の心もちも
他人の関心を惹くことでもっと物質的裕福を手に入れちゃおう系の
ヴェンチャー系よろしくの何にでもぶつかれ精神も
いつのまにかシュンと萎んで
鉄チャンが地味に切符を集め続けるようなぐあいに
意想外な純真さで
自分の気に入った写真をぽつぽつと
ほつほつと
まるで
創造者ではどこまでもあり得ない者たるコレクターの
しかるべき真の姿にふいに近づいていくかのような
ちょっと神々しくさえあるような
能舞台によろよろと立ち現われた弱法師のような
そんな風情で
一枚
二枚
三枚と
集め続けていくようになったりする

…なんて考えてくると
これはこれで
なかなか悪くない修行じゃないの?
イン活、ツイ活、顔活…
どれも
なかなかの鏡になってくれているじゃないの?
とも
思えてくるが

…そうかもしれない
戦争も
理由のない犯罪被害に遭うのも
健康に気をつけていた人が
ふいに大病に陥るのも
大災害にあって
幸福な一家がみな土砂に埋められてしまうのも
すべて
前世の
前々世のカルマならば
それらの解消を
もっと手軽に
ジョン・レノンがふと洩らした「インスタント・カルマ」ふうに
お手軽な炙り出しができる回路が
ついに20世紀終わりから
大々的に地球上に広まったと見ておけば
いいのかもしれない
いいのかもしれない



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