2019年2月21日木曜日

最大級に無謀な三人称である一人称



一人称を縦糸にして妄りに単語を並べていく書法を目撃するたび、不愉快でならない。「妄りに」と形容しなければならないほどの、エクリチュールについての余りの認識の不十分さ。乱暴と粗雑の極み。最大級に無謀な三人称である一人称は、こともあろうに、発話主体が自らを「私」という鏡=仮面=パッケージ=カプセル=粒に無思慮に落し込んで、せめてもの礼儀や節度の表明であるはずの口籠りやどもりを挟み込む配慮さえ欠いて、平然と白を切る瞬間にのみ使用され得る。まともな精神状態であれば、発話主体が最も発し難いはずであろう「私」を、いとも易々と発音してしまい、まるで並べていく単語について、語法的にも統辞法的にも意味論的にも責任を持ち得るかのように、朗らかに、意気軒昂たるギリシア彫刻のごとく屈託なく、発語の深淵を全く見下ろすことなく、覗き込むことなく、咆哮する。おゝ、おぞまし。「私」という鏡=仮面=パッケージ=カプセル=粒は、つねに、発話主体にとってこそ意味不明、淵源不明の最たるものであるというのに、それを知り尽くしているかのように、その所有権や使用権を確保しているかのように、「私」と発音することによって、その後に続けていこうとするあらゆる単語配列をあらかじめ無効化してしまう、儚い作文習性よ、習俗よ。真夏のカラスウリの、一日ばかりの白いレース状の花。虚無の花よ。出来ていくかと見れば、もう、ない。はじめから「私」によって無化されている、人界の最も虚しい束の間の行為、引き潮の時に点々とつけられただけの足跡。



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