2019年5月4日土曜日

なぜだか



「とにかくも、此処なのだというわけか。
生きるために人々がやってくるのは?
ぼくにはむしろ、死ぬためにやってくる場所だと思えるのだが。(…)」
リルケ『マルテの手記』冒頭




四月十七日のこと
それは天気のよい水曜日の夕方のことだったが
新宿新南口の高島屋のほうにある紀伊國屋書店の洋書売り場で
フランス語新訳の『マルテの手記』を偶然見つけて
ページをめくってみたのだった

高校生の頃にはじめて和訳を読んで
あの独特の繊細な暗さがちょっとつらいような
よくわからないような
いつまでも心惹かれるような
そんな感情のもやもやしたかたまりを置き去りにされていった感じだったが
もう少し歳が進んでから読み直しても
どこか書き損じのあるような気がする書物で
完全に理解できていないままで書架に戻したまま
いつまでも気になっていながら
それでいてもう卒業したことにしてしまいたいような本に感じた

ドイツ語の詩人だったリルケはフランス語でも詩を書いたが
主要な作品はもちろんドイツ語で
この本もドイツ語だからそちらの言語で読んだほうがいいのだが
1991年にクロード・ダヴィッドによって仏訳されたフォリオ版は
けっこう読みやすいいい感じの訳になっていた

この本を買って帰ることにしたが
若い時分に理解を中途半端に終わらせていたのを
今度はもっと理解できるように
などと思って
買ったのではない
本を理解するとか
十分に味わい尽くすとか
そんな野心はもうすっかり捨ててしまえるほどには
思いというものの使い方に習熟してはいるので
理解も味わいもそれほどちゃんと求めてはいない

なんと言ったらいいだろう
数ある文学作品のなかでも非常に孤独な書き手のマルテが
若い頃以上にいよいよぼく自身の身に
痛切に重なってきているからかもしれない

日本語では「手記」と訳されているが
フランス語訳ではcarnetsなので「手帳」なわけで
これは日記や手記でさえないずいぶんひそやかな記述帳ということになる
日記ならまだ偽りの記述も入り込む余地が多いし
手記ならなおさらのことだろう
しかし基本的に全く誰にも見せない手帳となると
じぶんの近未来のなんらかの用途や備忘のためのメモ書きでしかないので
じぶんに対する偽りは極力排除しなければ用途に適さない
フランス語への訳者はうまい名前を付けたものだと思え
これにはずいぶん惹きつけられたのだった

もとのドイツ語となると
本の題名はDie Aufzeichnungen des Malte Laurids Briggeとなり
「記録」「スケッチ」「デッサン」「録画」「録音」などの意味を
 Aufzeichnungenは含むことになるから
フランス語のcarnetとは似ているようで微妙に違う意味を出してくる
リルケはドイツ語で書いたのだから
どちらかといえばもちろんドイツ語の語感に従うべきなのだが
読書という行為や
本を手に入れる、買う、保持するという行為は
必ずしも原語に拘束されるばかりではない微妙な事情に左右される
少なくともドイツ語のタイトルを書店で見ていたら
ぼくは『マルテの手記』を今さら買い直す気にはならなかったかもしれない

ぼくは
なぜだか
ずいぶんたくさんの形式逸脱の単語配列を行い続けながら
なによりも大切だと言われる人生時間を蕩尽し続けてきている
世に生きる人々は伝統的な形式に嵌まった単語配列しか読もうとはしないし
徹底した合理主義者のぼくはもちろんそれを冷徹に認識していて
そこには幾分かの楽観視も夢も希望もなく
ぼくによって記されてしまった単語たちが未来永劫
誰によっても読まれることはないのを考えれば
単語たちには申し訳なくも情けなくも悲しくもなるけれども
そうはいっても
なぜだか
生まれつきの性質というのはどうしようもないもので
なぜだか
韻律を踏んだ新体詩は大嫌いだし
今さら大好きな中也のようには書けない時代なのだし
なぜだか
かといって戦後詩やいわゆる現代詩も大嫌いなので
方法は学びつつも
そっちのほうには魂はすり寄せていくわけにもいかず
なぜだか
本当に未来永劫の超絶の孤独を単語配列しながら肌に感じ続けてい
そういうぼくのいよいよ増してきている壮絶な孤絶に
なぜだか
ふと手に取ってしまった『マルテの手記』ならぬ『マルテの手帳』
ちょうどいい頃合いに衰弱していた心身に
なぜだか
とっておきの細菌がずばりと侵入したかのように浸透したものらしい

手帳というものの
いや
手帳というものに記される単語たちの
その途方もない孤独
孤絶
それにこそ全幅の共鳴をしてしまったのだ
ということかもしれない

ぼくの記す単語はすべて手帳に記されるだけの単語であり
いずれ死滅する肉体を持ったぼくもまた
手帳そのものであるのだから




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