2019年8月31日土曜日

それになり得なかった言葉たちに

  

Je laisse sans regret s’écouler les injures
et je passe mon chemin
Philippe Soupault

私への蔑みなど過ぎ去りゆくままにしておく
それでいいのだ
私は私の道を行くだけ
フィリップ・スーポー




わたしは詩人ではなく身のまわりのあらゆる物質を使って物質界のなかで“無さ”というものの肌触りをわたしの意識の皮膜の上に絶やさないようにしようとしているだけのことで


乱暴に詩と呼び捨てられてしまいがちな言葉の寄せかたで言葉の配列や散らしを行ってみるけれどもそれらが詩と見られようと見られまいとそれは全く重要なことではなく(見られること/見られないことの場にわたしはいない)


思う
珊瑚たちの生命力の最先端は乱暴に珊瑚と呼び捨てられてしまいがちな骸を残してどこへ行ってしまおうとしているのだろう
(「と」を付加すべきか。否、自由間接話法的に)


思う2
数え切れないほどの建物をある地域に集中的に建て続けて数百年数千年すればそれらを放棄してそこからは消滅してしまう人間集団は都市や建物という骸を残してどこへ行ってしまおうとしているのだろう
(「と」を付加すべきか。否、ibid.


骸の管理者を自称したがる人たちがいる
骸そのものだと自称したがる人たちがいる


de profundis……(詩編130.1
「御言葉を待ち望みます」(詩編1305
わたしは言葉を発するものではなく「待ち望」むもの
「御言葉」でない言葉に
それになり得なかった言葉たちに
意味など
ある
とでも
いうのか


思う3
わたしはどこへ行ってしまおうとしているのだろう
骸をただしく骸と見
骸と自分を同一視しないわたしは


[背景想起]
マーラー交響曲第6番第3楽章を
くり返し聴いたことがない人たちだろうか……
あの
歩く影たち……


思う4(聞こえないほどの低い声で、呟きがちに)
もちろん
マーラーでは甘すぎるにしても……


[舞台背景またはト書きの部類]
風、微風、
ブリーズ・マリーン(Brise marine)……
あ!
あれ!
La chair est triste, hélas ! et j’ai lu tous les livres.
「肉体は哀し! 本ならすべて読んでしまったし!」

(無いほうがいいかもしれないのに
(マラルメはetを入れているのだ
12音節を維持するために……
(日本語詩歌では短歌俳句は引き継いできている配慮だが
(自由詩形はふしだらにも一顧だにしない……


東京、20198月末日、都心
であるからにして
潮の無限旋律のような
ひっきりなしの自動車の走行音に伴われつつ


補足的呟き、あるいは、わたしはどの地点から言葉を配列しているのか]
自由間接話法はギュスターヴ・フロベール以降のフランス小説の占有手法というわけではない。
村上龍の最盛期の小説でも多用され、日本語散文でも無理なく使用されうるのが証明された。ウィリアム・フォークナーの作品群の叙述にあっては、どうか。自由間接話法ははるかに進歩を遂げて、別の呼称で呼ばれるべき方法になったというべきではないか。ウィリアム・バロウズも諸作品において思い切った叙述法の跳躍を行ったが、詳細にそれらを分析した論文はあるのか……






*ステファヌ・マラルメ「海の微風」Stéphane Mallarmé Brise marine》)
「肉体は哀し! 本ならすべて読んでしまったし!」





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