人間は自由な身で生まれるというのに、 至るところで鎖に繋がれてしまう。
ジャン=ジャック・ルソー『社会契約論』
L’homme est né libre, et partout il est dans les fers.
Jean-Jacques Rousseau « Du contrat social »
神保町の
そろそろ書架も崩れそうになってきている
バラックというか
ほとんど納屋というか
流行らないのもいいところの
ちっちゃな古本屋の
それも
端っこの
隅っこの
キッタないところに
山本太郎
とあったので
手にとってみる
というより
引っこ抜いてみる
と
詩人の山本太郎の詩集だった
山本太郎といえば
今どきは
れいわ新撰組の山本太郎だが
こういう山本太郎もいたのであった
詩人の山本太郎がいたのであった
中高生雑誌の詩の選者とかやっていなかったっけ?
詩なんか読まない中高生たちにも
なぜか名前は知られていた山本太郎なのであった
やっぱり中高生雑誌の選者をしていた
高田敏子だとか
生方たつゑだとか
ああいう人たちと同じように
なぜか若者に知られていた山本太郎なのであった
ぼくも名前は知っていたが
中高生時代というのはやけに主流好きだったりするし
なんせ知識と判断力に欠けるから知的には結局体制側だったりする し
どうこういっても流行に流されちゃうだけだし
等などで
日本の詩人といえば
やっぱり谷川俊太郎でしょ
戦後派なんて谷川俊太郎を準備するためにいただけでしょ
現代詩派なんて谷川俊太郎のまわりの四天王みたいな役割でしょ
と結論づけているぐらいのもので
山本太郎なんて
正面からろくに読もうとはしないできたのであった
詩集をぱらぱら開く
なんか
ダニやダニの糞がもわもわ手や腕に移ってきそうで
おそるおそる
そおっと
開く
あ、「散歩の唄」!
右の手と左の手に
ぶらさがった子供たちが
上をむいて
オトーチャマという
俺も上をむいて
誰かの名前を呼びたいが
誰もいない
俺の空はみごとにがらんどうで
鳥に化けた雲ばかりが
飛んでゆく
すばらしいじゃないか
このがらんどうのなかで
お前達のオカーチャマが
一本のローソクのように
燃えていたのだ
燃えてふるえて俺をまっていたのだ
お前達もいつかは
がらんどうの空をもつだろう
そのときは ひとりびとりの
たしかな脚で立って歩いて
お前達の焔をお探し
ほら ぶらさがってはだめだ
もういちど上をみてごらん
もうオトーチャマの顔はない
間違ってはいけない
ゆらゆらゆれているのは
消えてゆく雲だ
なんというか
クリーンヒットみたいな
タピオカでもなく
ゴージャスなデザートでもなく
今川焼きみたいな
人形焼きみたいな
みたらしみたいな
こういうのが
詩だよね
と思ってしまうのは
ぼくが甘いのか
間違っているのか
俺も上をむいて
誰かの名前を呼びたいが
誰もいない
というのはすごい表白で
近代人の宿命とか
現代人の条件だとか
大学の社会科学のセンセなら小むずかしく言うかもしれないけれど
詩人はそこまで言わずに踏みとどまるんだよね
知っているからね
小むずかしく言ってしまえばたちまち届かなくなるのを
たちまち
今川焼きな人たちや
人形焼きな人たちや
みたらしな人たちに
言葉が届かなくなるっていうのを
れいわ新撰組の山本太郎も
詩人の山本太郎と合体しちゃっていいんじゃないの?
と思ってしまう
右の手と左の手に
ぶらさがった子供たちが
上をむいて
オトーチャマという
俺も上をむいて
誰かの名前を呼びたいが
誰もいない
これって
近未来の
来たるべき
すごい
政治主体再確認だ
上をむいても
天空のような覆いになってくれる他人も
助けてくれる他人も
正真正銘の権威になってくれる他人も
だぁれもいないんだ!
という自己認識は
やはり
すげぇことなんだ
れいわ新撰組の山本太郎に
これって
伝えておこうかな
って思う
詩人の山本太郎を再発見せよ!
って
それにしても
神保町の
そろそろ書架も崩れそうになってきている
バラックというか
ほとんど納屋というか
流行らないのもいいところの
ちっちゃな古本屋は
いい仕事を
している
それも
端っこの
隅っこの
キッタないところで
どこまでも
ダニやダニの糞がもわもわ手や腕に移ってきそうな
古い詩集を捨てずに
いい仕事を
している
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