2020年1月12日日曜日

寒さの無限のグラデーションの存在に少しでも意識が向けば




冬には寒さが…
あるのか、降りてくるのか、染み上がってくるのか…
寒さと言っても、今の寒さとさっきの寒さは違い、
昨日のある時点で感じた寒さと、
おとといの他の時点で感じた寒さとは違う。
寒さの無限のグラデーションの存在に少しでも意識が向けば、
眩暈のするような喜びに襲われてしまう。
10月に「天竺徳兵衛韓噺」を見た時も、今年の1月に
「菊一座令和仇討」を見た時も、はるか昔の1981年、
同じ国立劇場で、12月、「菅原伝授手習鑑」を見た時の興奮が蘇った。
国立劇場開場十五周年記念で、11月に続く通し狂言の第二部、
言うまでもなく、竹田出雲・三好松洛・並木千柳・竹田小出雲の合作。
古い通し狂言と鶴屋南北のものを見る時は、かならず舞台に近い席で、
3列、4列、5列、好みの席がうまく手に入らなくても
10列よりは前を選び、チケットが高くても、翌月に金欠に陥って
節約せねばならなくなっても、とにかくも是が非でも奮発し、
特別席に座って、まるで、ネルヴァルの『シルヴィ』の、
劇場通いに夢中になっている、あの語り手の私のような夢心地で、
ひとりで真剣勝負のような気持ちで見に行くので、
1981年の年末も、昨年10月の席(2列目)や
今年1月の席(4列目)に近かった席のはずで、
それが正確には何列の何番だったか、忘れてしまいはしたものの、
今年19日に私が数時間存在した、1428番の席の周辺に
1981年の若かった私の存在の残り香を嗅ぎとろうとするかのように、
まわりを見まわし、鼻を澄まし、今よりも、歌舞伎のすべてが新鮮で、
興奮に満ち、次の幕、次の幕、わくわくと待たれて
我慢ができなかった頃を、懐かしく、というのではなく、
激しく思い出そうとしていた。
198112月、「吉田社頭車引」の場では、
舎人松王丸を市川海老蔵(代目)、舎人梅王丸を中村勘九郎(代目)
舎人桜丸を尾上菊五郎(代目)、左大臣藤原時平を坂東彦三郎(代目)
が演じ、「佐太村賀の祝」の場は、佐太村の白太夫を
舎人松王丸を市川海老蔵(代目)、舎人梅王丸を中村勘九郎(代目)
桜丸女房八重を中村児太郎(代目)松王女房千代を
市川門之助(代目)梅王丸女房春を市村萬次郎(代目)
百姓十作を助高屋小伝次(代目)が演じ、「寺子屋」の場では、
舎人松王丸を中村勘三郎(十七代目)が、武部源蔵を
市村羽左衛門(十七代目)が、松王丸女房千代を尾上梅幸(代目)が、
源蔵女房戸浪を中村雀右衛門(代目)が、春藤玄蕃を
坂東簑助(代目)が、御台園生の前を大谷友右衛門(代目)が、
涎くり与太郎を市川子團次(代目)が演じ、「大内」の場では、
左大臣藤原時平を坂東彦三郎(代目)が、法性坊阿闍梨を
市村吉五郎(代目)苅屋姫を中村芝雀(代目)が、斎世の宮を
坂東慶三(代目)判官代輝国を市川右之助(代目)が、
左中弁希世を澤村昌之助(初代)が、三善清行を
中村勘五郎(十三代目)が、奴綱平を片岡十蔵(代目)
演じたのを、11月の第一部との繋がりぐあいを、必死に
読みとろうとしながら、漢字ばかりの配役名にも役者たちの名にも
うっとりしながら、私は、国立劇場の今と変わらない
あの席の並びぐあいの中に、席から舞台までのあの間隔、
花道までのあの距離、ロビーの六代目菊五郎のあの姿、トイレの中の
あの配置ぐあいなどの中に”いた“、“存在していた”。
その日、198112月の「菅原伝授手習鑑」が殊のほか思い出深いのは、
夜の部が終わったら、直ちに、行ったこともない奥多摩の真言宗の寺に
向かって、亡くなったばかりの遠縁の老婆の通夜に出なくては
ならないからだった。ほとんど血の繋がりのないとも言えるような
遠縁だが、戦前から母方との深い付合いがあった老婆で、法事のたびに
奥多摩から出てきてくれていて、老いても毎朝、生玉子一個で
顔を洗うことにしていたらしく、80を越えても、肌は、奇跡的なまでに
いつまでもつやつやで、他の女たちがあまりやらないそんな美容法も、
戦時中までは満州で酒楼を営んでいて、置屋も持っていたとか
いなかったとかいう過去の身過ぎ世過ぎから身についたものらしく、
芸者と客がしっぽりしているところへ、客の妻が包丁を持って
乗り込んでくるのをうまくかわして、客を裏から逃がすような
演劇めいたこともたびたびで、という話は、よく、母や祖母から
聞かされていて、子ども時代や少年期の私が見ると、ただの静かな
お婆さんにしか見えないのに、あんな人にも若いやり手の時分が
あったものかいなァ、と歌舞伎ふうに思ってみたりもするように
なっていた時の死で、もとより、歳をとっての大往生の死とあれば、
悲しさよりも、よく頑張りましたというのが親類一同の思いで、
舞台のはねた国立劇場から、冬の、格別に寒かった夜に、これまた、
格別に寒い奥多摩へ、わざわざ向かっていくのも、まるで、
見終えたはずの「菅原伝授手習鑑」の続きの幕の中を、登場人物の
ひとりの私が、夜陰にまぎれて、……いや、煌々と明かりのついた
電車を乗り換え、乗り換えし、駅から駅へと進んでいく
のだったけれども、だんだんと都心から遠ざかって、電車の接続も
悪くなってきて、そうして、もうひとつ乗り換えないといけないと、
来るべき電車を、もう他には客の姿も見えない小さな駅の、
吹きっさらしの木のベンチで待っていたときの寒さと来たら、
(……ト、ここで、この書き物の冒頭の、寒さ話に、
ようやっと、繋がり戻ってくる、というわけで……)しばらく
経験したこともないような寒さで、閉じている口の顎が
自然にがたがたと鳴り出して、いくら歯を食いしばっても、
動きが止まらない。着てきたコートでは、とてもではないが
防寒に足りず、もちろん、寒さと言えば、雪の日の外での
雪遊びの際や、冬の旅行でちょっと雪原に出てみた時のような、
もっと寒かった経験はいくらでもあるものの、そうした時と違って、
街中でのちょっとした寒さしのぎ程度のコートで来てしまったから
こその寒さなのだが、けれども、「菅原伝授手習鑑」を
1112月と見終えた後の夢幻脳には、いかにも劇がかった、
一世一代の大冒険の一コマのようなのだった。顎の大げさなまでの
震えばかりでなく、手も足も同じように盛大に震えてきて、
寒いっていうのは、こういうんだなァ、ある程度を越えると、
こんなに盛大にがくがくと体じゅうで震え出して、自分の意思じゃ、
止められなくなるんだなァ、と気づきながら、これから、その通夜と
葬儀に向かうべく、街から離れた、こんな小さな駅で、がくがく、
ぶるぶるしている、この状況の源たる老婆が、そういえば、敗戦の時に、
がらりと状況のひっくり返った日本人の女のひとりとして、必死に
逃げのびるために、頭はぜんぶ丸刈りにして男に見えるようにし、
価値のある宝石は膣の中に押し込んで、わずかながらも、後々の足しに
しようとし、ときどき、ロスケ、ロスケ、と、母も、祖母も、
昭和のあいだはずっとそう呼び続けた、あのロシア人の兵隊たちに
見つかると、目の前で他の女たちが強姦されるのにも、なんとか堪えて、
シラミのわく身体で、どうにかこうにか、日本に帰り着いてから、
さあ、その後がまた、大変で……と、これは、主に祖母から
聞かされた話の数々だが、少年時代には、そうか、戦争で
みんな苦労したんだナ、といい加減に済ましてしまったものだが、
「菅原伝授手習鑑」をわざわざ見に行くような学生っぽに
なって考えてみると、そういえば、そもそも仏教や、お寺とは
縁のなかった、満州帰りの女が、どのように奥多摩の、なかなか
豪壮な真言宗の寺の奥さまに納まったものなのか、そこには、
けっこうな物語もあれば、運も、計略も、奸計も
あったのではないのか、と考えはじめたりしていた。しばらくして、
ようやく電車が来て、それも、幽霊電車と呼びたいほど、
誰も客が乗っていないような電車で、忘れないように、
国立劇場へも持っていった、喪服の入ったガーメントバッグを
片手にしっかり持ち直して乗り込むと、電車は動き出し、
いっそうの寒さと闇の世界へとゆっくり進みはじめていき、
この時に、この幽霊電車に乗り込んだ私、というか、私らしきもの、
私ででもあるかに思い込んでいた青年は、この電車の行き先から、
その後、無事に帰ってきたものか、どこかで闇に入り込んで、
いまだに出てきていないのか、わからない……



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