睡眠状態から徐々に
あるいは
ふいに
抜け出す、…というより、”抜け逸れる”、”抜けずれる“時、
わたしの在処、棲み処が
肉体でもなく、心でさえもなかった、
と
気づくことがある
まだ夜の明けない頃の薄闇の寝室であれば
その薄闇と
その中にいるがゆえの
かたちの欠如、
色の欠如、
それらから普通は取得できるはずの方向概念の必然的な欠如、
そうして
意識内に普通は抱えて存在地図としている世界像の境界の欠如、
……それらのほうが
むしろ
わたしであった!
と思い直すべきだったか?
と
気づくことがある
気づくことがある
わたし、と
この記述の一連と二連で記した箇所では
はじめ、じつは「主体」と記した
二連の「むしろ」を記す直前に
「主体」を使い続けてよいのか、急な惑いに陥り、
「わたし」へと避難することにしたが
この時、意識をヴァンサン・デコンブの論文の一節が走ったためだ
《わたしは別のものである、「わたし」 と名付けられる思惟する主体は
《デカルトと名付けられる人格とは別のものである、
《ということを意味するとき、……*
こんな一節のふいの蘇りは、もちろん、意味を構成しないが、
方向は瞬時に発生させ、過ちの小径を行こうとしていた思惟の袖を
引っ張り戻すことにはなる……
朝よりの雨が、豪雨でなく、時に靄のようなやわらかい雨で、
失われないでいる心のようだ(…と、曖昧な言辞を
労してみたい気にさえさせる…)。
靄のような雨が薄く明るく遮っているむこうにビルの重なりが見え るが
靄のような雨のせいでごく薄く青くも見え、
ごく薄くグレーにも見えている。
青いとか、グレーだとか、言い切れてしまえば
表現はくっきりと刻印する安易な力を一時的に持つことができるが 、
それでは、あまりの嘘になってしまう。
(あまりの嘘でなければ楽しんでおくということを、
(わたしは時間の通過の河の淵で、また、時には流れの中で、
(十二分に学んできた……
あまりの嘘は、避ける。
あまりの嘘ではない程度の嘘に、止まろうと、まだ、するために…
雨の街が美しい。
わたしの主体が体や心よりもそちらのほうに今あるから…
などと
また、記したくなってしまう。
あまりの嘘、
でもないようだが、
もう少し、
確証がほしい……
*ヴァンサン・デコンブ「『主体の批判』と『主体の批判』 の批判について」(安川慶治訳、in「主体の後に誰が来るのか? 」(現代企画社、1996)所収。
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