学校などで習ったりして
こころに今も残っている短歌はなにか
と聞いてみたら
若者たちのうちには
在原業平の歌など挙げてくる者が
意外に多かった
様変わりしてしまった世相のようでも
このように
変わらないものがあちこちに潜んでいたりもする
若者たちが
歌といえば小野小町を出してきたり
紀友則を出してきたり
業平を出してきたりする
幕末から変わらないような
歌の古風な流行らぬ好みをずるずると続けていくことにも
どうやら価値はあるようだと
古庭の鮮やかな苔の緑にふいに目を洗われて
ほんのちょっとでも
生きかえったような気持ちになる
業平という名に
墨田区業平に住んでいた義理の叔父を
ひさしぶりに思い出した
もう二十年近く前になろうか
大腸ガンで亡くなった
ことのほかビールが大好きで
一度ほかの叔父と従妹と四人で
神谷バーでさんざんぱら飲んだ時にも
こんなのはまだ飲んだうちには入らない
とふらふらして言いながら
あれをへべれけといったらいいのか
右に左にと傾ぎながら
このあたりは庭みたいなもんだから
となおも言い捨てるようにしながら
吾妻橋を渡って
業平へ帰っていった
ビール大ジョッキをひとり四、五杯飲んだあとで
デンキブランの杯が四人で五十杯以上
食べ物もいろいろ取ったから
支払いは十万を超えたが
叔父ふたりが格好をつけて払ってくれた
業平の叔父を吾妻橋で見送った後
残った三人でさらに新宿のワイン屋に移り
朝まで数本を空けてようやくお開きとなった
おや、忘れてはいけない
神谷バーに行く前には三定で
天ぷらの盛り合わせを何皿か取りながら
すでに数杯はビールを飲んで
サントリーのダルマまで取って飲んで来ていた
業平の義理の叔父は温厚な人で
激したりしたのを一度も見たことがない
酒に乱れたのも見たことがない
そうでもなかったと叔母は言うが
業平でながく紙業と印刷業を続けてきただけあって
ちょっとやそっとでは揺るがない
落ち着いた職人らしさが魅力だった
生きているあいだは法事で会ったりするたび
古代ワルプルギスの夜ならぬ
神谷バーでの例の一夜の酒宴のことを
たびたび持ち出し持ち出し直してきて
自分より酒に強いんだからまったく驚いた
たいていは自分こそが人を介抱してやるんだが
と何度もなんども言われ続けた
他にちょうどいい話題がなかったのも事実だが
酒飲みどうしの話題というのはこんなふうに
あの夜は酒瓶を何本も何本も並べただの
あれこそ鯨飲というやつだっただの
そんな益体もない手柄話が延々と重宝されていく
琵琶の伴奏でも加わってくれば
立派な音曲が幾つもできていくかもしれない
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