2020年5月6日水曜日

わたしはひとりの他者である


  Ⅰ

マスク狂時代にどうレジスタンスするべきか

マスク信仰が愚か過ぎて付き合っていられない

マスクは
唾が正面に飛ぶことだけを防ぐが
呼気が周囲に広がるのは防ぎようがない

むしろ
マスクをすれば脇からはなはだしく呼気が洩れる

マスクは
となりにいる非感染者たちに
感染者の呼気を効果的に差し向ける
危険きわまりない殺傷兵器である

他人と横並びに会話や飲食をすることこそが
他人を
なによりも確実に感染させる致傷致死行為である

すなわち
マスクは汚い
マスクはおぞましい
マスクは危険
マスクは犯罪的
マスクは反社会的
マスクをつけている者は精神からして醜い

マスクを付けている者を見たら
テロリストと思え

自分以外の全国民は感染者か感染者予備軍なのだから
これら感染者や感染者予備軍から自分を守るには
自分以外の全国民の呼吸をすみやかに全面停止させるような
緊急措置が講じられるべきである

ところで
全国民は「自分」である
また
あらゆる「自分」は「他人」である

となれば
採用されうる方法はひとつしかない

自給式空気呼吸器か自給式酸素呼吸器の着用を国は全国民に義務化
呼吸器の費用は国が負担するべきである

GW中は特売もしておるぞよ

万国の「自分」よ
「他人」せよ

わたしはひとりの他者である
Je est un autre.

アルチュール・ランボー



Ⅱ 

Ⅰのような内容のものをFacebookに書いた

わざと奇矯に向かっていくような書き方を選ぶ
自由詩形体で使用する時の言語はかならず奇矯に向かわねばならないからだ
日常の常識内に沈淪する言語は記す価値がない
しかも今現在の日常とは安倍晋三的日常である
今現在の安倍晋三的日常にとって自由連帯平等は非日常である
万国の言語表現よ非日常せよ!
非日常主義者万歳!



  Ⅲ

とはいえ
Ⅰに記したことはけっこう嘘である
わたしの自由詩形体のコンテンツはほぼ嘘であるからして
とくに驚くべきことでもないが
わたしはときどき洒落れちゃうのでそれをフィクションと呼んだりする
ハクションではないのである



  Ⅳ

どこが嘘かといえば
どこがフィクションであるかといえば
わたしはけっこうマスクを認めている

外出する時などかならず持って出る

あんまり使わないが
ガンマンがサッとピストルを取り出せる程度には容易に出せるよう
上着の内ポケットに入れている
あるいはバッグの外ポケットに入れている

わたしは東京都心に住んでいる
緊急事態宣言とやらが出されたおかげで
いや出される前に自粛モードが打ち寄せた頃から
じつは都心は無人の楽園と化してしまっているので
はっきりいってマスクをして歩くのは馬鹿である
馬鹿というのはマスク一枚だって幾らかするからである
わたしは節約する
デカルト的に言えば
我節約す、故に我あり
である
必要がないところでマスクをしたがるのは
けっこうはっきりした精神のビョーキである
わたしははっきりしない精神のビョーキかもしれないが
そんなにはっきりした精神のビョーキではないから
必要がないところではマスクはしないのである

必要かな?
と思うところはある

狭いエレベーターで
他の人といっしょになった時などそれである
1メートルも間隔がない
他の人の呼気がどんどん密室の中で生産されていると思うと気持ち悪い
コロナ以前からそう思っていてヤダなァと思っていたのである
ましてや今は公明正大にコロナ!である
コロナさまさまである
おまえの呼気は吸いたくないぞ!と大っぴらに見せつけられるのである

はじめの頃はそうしていた
志村けんがまだ死んでいなかった頃である
わたしは人より準備も実行もはやい
旬が好きである
最盛期になにかをやるなんざ粋じゃないのである

ところが最近は
だいぶ怠けるようになってきた
家は高層にあるのでエレベーターに乗るとちょっと時間がかかるが
そのぐらいは息を止めていられる
ちょっとしたグランブルー練習である
エレベーターから出るとプハーッとやる
息止めとプハーッはけっこう健康にいいのではないかと思う



  Ⅴ

こういうわけだから
なぁんだ
けっきょくマスクなんて
やらないじゃないか
と思われるかもしれない

やるんだなぁ
それが

スーパーマーケットでである

毎日のように行くスーパーマーケットは決まっている
そこのレジ係の人たちとは
挨拶はしないものの
けっこう顔見知りである
そろそろ挨拶するようにしたほうが人間的じゃないのか
と悩んだりはする
レジ係の人たちと挨拶している客を見ていると
たいてい
なぜか人当たりをやけによくしようとしているお爺さんであったり
風体のかなり変なオジサンであったり
あるいはどこかのちょっと汚れ仕事系のオバサンであったりする
あえてレジ係の人たちと挨拶をしたくなるような
孤独のようなものを
どうもどこかに抱えている感じの
けれど表面は不必要なまでに愛想のいい人たちである
この人たちの特徴は
レジ係の人たちから離れると
ただちにブスッとしてしまうことで
顔はサッと暗くなり
背後から見ると頼りなくてフラフラしている

だから
レジ係の人たちと
あえて挨拶はしないようにしているのである
ヘンな人のうちのひとりだと思われるのも
あまり気が進まない
まぁ小心といえば小心なのだが
こんなところに小心を飼っていてもべつにいいんじゃないだろうか

しかし
ともかくも
レジ係の人たちとは顔見知りであるからして
こんなコロナばやりの時には
このお客さんにウツされやしないかしら……
と不安を抱かせたくはない
とは思う

なので
スーパーマーケットに入る時には
けっこう
マスクをかける
見知っている人に対してはけっこう親切なわたしなのである



  Ⅵ

とはいうものの
けっこう
スーパーマーケットでもマスクを
しない時があるのである
レジ係の人の前でも
けっこう
しない

これって
なんだろうね?

見知っている人に対してなのに
けっこう
親切ではないではないか?

どうしてだろうね?

やっぱり
マスクを
あんまり信じていないからである

自分は相手にコロナ入りの唾を撒かないはずであるからして
マスクは必要ない
そう思っちゃうからである

いやなに
罹っていたらしますよ
マスク

でも
罹っていない

その証拠に
元気そうにたくさんの重い買い物をしに来ているではないか

そう思っちゃうからである

自分が大丈夫なんだから
ここで使っちゃ
マスク代
もったいないなァ
なんて
思っちゃうのである



  Ⅶ

え?
自分を守るためにも
マスク
したほうがいいって?

それはないね

だって
なんどか戸外で
煙草を吸っている人の通った後を歩いていて
煙草のにおいをマスク越しに嗅いだから
マスクって
煙草の粒子以下の小ささのものに対しては
まったく無意味だな
と実地でわかったからである

Ⅰに書いたような
自給式空気呼吸器か自給式酸素呼吸器でないと
自分を守ることもできなければ
他人を守ることもできないはずなのであるのであるのである

だから
自給式空気呼吸器か自給式酸素呼吸器の着用を国は全国民に義務化
呼吸器の費用は国が負担するべきである
というのは
本当にわたしの思っていることである

さっきは
GW中は特売もしておるぞよ
と書いたが
これはミドリ安全の公式ホームページに書いてある事実である
まとめ買いのチャンス!
と書いてあるぞ
GW終わったらどうするんだろうね
特売はやめちゃうかな?*

万国の「自分」よ
「他人」せよ
と書いたのは
もちろんマルクスの『共産党宣言』をもじったものである

わたしはひとりの他者である
Je est un autre.
という
アルチュール・ランボーの言葉は
ヴェルレーヌへの手紙だったか
それともイザンバールへの手紙だったか
とにかく手紙に記した有名な言葉だ
この一文が文学史的には事件であったが
コロナ騒ぎよりも詩歌好きにはこっちのほうが事件だということは
世間のほとんどの人にはピンと来ないだろうなァ

そういえば
昨日
ひさしぶりに詩人の窪田般彌さんのことを思い出した
洒脱でユーモアのあった窪田般彌さんは
自分たちが学生時代にはみんなホントに馬鹿でね
と話してくれた
アルチュール・ランボーの綴りはArthur Rimbaudって書くでしょ
あれを
英語しかろくに知らないで
フランス語を始めたばかりの学生たちはちゃんと読めないでね
アーサー・リンバウドなんて言ったりしてた
おれ、アーサー・リンバウド読んでるんだけど
けっこう難しいとこあるぜ
なんて
自慢してたりする
まったく馬鹿なんですよ
あの頃は

ははははは
バッカだなぁ
なんて
笑って聞いていたが
後になって思えば
窪田般彌さんの若い頃の学生たちは
翻訳じゃなくって
いきなり原語でランボーに取りかかったわけじゃないか
そうでなければ
Arthur Rimbaud
アーサー・リンバウドと読み間違えることさえないのだ

まったく
馬鹿などころか
たいした挑戦心じゃないか……

挑戦心といえば
わたしは
フランス語を学び始めていちおう文法が終わったくらいの時に
ポール・ヴァレリーの長詩『若きパルク』が読みたくて
原書だけは買って
ある先生にこれを読みたいんですが
大丈夫でしょうか?
って
格好つけて見せに行ったことがある
いやあ、まだ難しいと思うよ
とその先生は言ったので
なぁんだ
情けない先生だなぁ
とちょっと馬鹿にしかけたが……

ヴァレリーの詩は
ランボーなんかより
マジで難しいものだった
20代や30代の頃は
ヴァレリー詩集をよくバッグに入れていて
混雑した電車の中や
終電や
電車の来ないホームなんかで
よく開いてみたが
学生時代にある先生に言われた
いやあ、まだ難しいと思うよ
という言葉の真意を
さんざん思い知ることになった

鈴木信太郎の訳を読んでいたから
大意はわかっているし
ところどころの意味もわかっている
しかし
その「わかっている」というのは
鈴木信太郎の訳から読み取れる意味や効果がわかっているということで
ヴァレリーの原文そのものの意味作用がわかっているのとは違う
いちど訳を手放してみると
ヴァレリーの詩句にはけっこう難解なところがあり
なかなか原文がわかっているというところまではいかない
しかも『若きパルク』は長い詩なので
何ページか進むうちになにを言っているのかわからなくなってくる
ヴァレリーの先生のマラルメだって
やけに難解なので有名だが
1ページや2ページぐらいで見渡せる短めなのが多いので
意味のつながりぐあいはまだしもわかりやすい
ところがヴァレリーの『若きパルク』ともなると……

なんで
マスクや
自給式空気呼吸器や自給式酸素呼吸器から
ヴァレリーのことに行き着いたのか
わからない
でも
ないが

時しも五月!
若かったわたしはヴァレリー詩集を携えて
GW
江ノ島や鎌倉の海に赴いたこともあったと思う
そうして
打ち寄せる波のつよい音の中で
『若きパルク』ではなくて
詩集『魅惑』の「海辺の墓地」を開きながら
「美しき空、真の空、見よ、変わりゆくこの私!
あれほどの思い上がりののち、また、あれほどの奇妙な
しかし、力に満ちた無為ののち、私は
この輝かしき空間にわが身を委ねる……」
という部分や
末尾の有名なあの個所
「風、立ち起こる!…生きようとせねばなるまい!
  わが書物を、大気は開き、また、閉じる!
  波は砕け、岩間から吹きつける!
飛び立っていけ、目くるめくページたち!
打ち砕け、波よ、歓喜する水で、
餌を啄む鳩のように三角帆の動く
この静かな屋根を!」
ここを読んだにちがいない

  






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