2020年5月29日金曜日

詩形式とはなにか



私は若い頃散文形式選択者であり、今でも散文形式を使いながら思考するほうが、自分にとっての思考としてはより精確なものになると思っている。

詩形式には今も馴染みが薄い。

にもかかわらず詩形式を利用してみるのは、精妙に思考しようとしない場合に、社会的に拠点となりうる一人称単数形の主体を設定しつつも、そこからなんらのメッセージも発しようとしない言語表現を試みてみようとするためである。
というのも、詩形式は、知的に怠惰な盲信からなる自撮り主語からのメッセージを、ただちに分解し、散乱させていく形式だからである。
反メッセージと印象の即座の燦爛化とを狙って言語配列をする時には、詩形式は散文よりも効果的である。散文は時系列の情報連鎖方式であるが、詩形式は行ごとに連鎖は断たれており、さらには一語ごとに、より厳しくは、一字ごとに連鎖は断たれている。散文のみを読み慣れた者が詩形式を読む時に呼吸困難のような感覚に陥るのは、むしろ、あちこちに設けられた連鎖の断絶を敏感に感じ取るからだろう。

詩形式とはなにか。
基本的にあらゆる自由を許容するとはいえ、あえて散文とは違う部分を強調してみれば、意味やリズムの絶えざる断絶の仕組まれた単語並べであり、非常に多くの場合、行数は数十行以下が(あたかも日本国民の間で法的強制もなしに実現される集団的忖度・自粛などの横並び現象のように)要請され、各行の字数は文庫本の一行に入る程度の数が要請される。インターネットが普及して、各行の要請文字数は変化したが、スマートフォンの普及と相まって、各行の文字数は20字以下が求められるようになってきた。
となれば、五言絶句や五言律詩ならぬ二〇言二十行や二〇言三十行ほどがだんだんと主流になっていく可能性がある。もちろん、一〇言七行や八言九行などもありうるわけで、二〇世紀後半に多少の隆盛を見た字数や行数の過剰さは、スマートフォンでの見やすさという物理的要請から、必然的に衰退していくと予想しておいたほうがよい。
形式的自由の飽くなき追求などということは、基本姿勢としてはもちろん許容され、そればかりか一部では賞讃さえされ続けるであろうが、詩歌好きの中でさえも、20世紀の一時期の古風な習俗と見られることになっていく可能性のほうが大きい。長いもの、整理仕切れていないものは、適切な編集能力とプレゼン能力こそ詩人に求められる最大の才能と目されるようになる21世紀にあっては、「やはり、古いね…」のひと言で見限られるようになるだろう。

そうして、内容的には、詩形式は配電盤であるべきである。たくさんの電線がそこに接続されているが、それら電線の先にあるべき多様なものはそこには全くない。ないが、多様なものすべてにそこで繋がっている。各単語はひとつひとつが複層概念や複層観念であり、それらの層のあいだを電流は行き来し、各概念や観念の間をも行き来し続けて、瞬間事に違うイメージや意味作用を醸成し続ける。最終的なイメージや意味生成や総体というものは存在しない。存在したと見えても、すぐに次の総体やイメージや意味生成に移行し続けるという意味で、存在しないのである。




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