2020年5月29日金曜日

なにごとかを語っていると思い込んでいる盲人たちのなかで



観察していると、なにかを語る人にとって重要なのはとにかく単語を並べるということで、じつは誰にとっても、テーマはどうでもよいのがわかってくる。
主体は人の側にではなく、どこまでも言葉の側にあるのであり、どのようなテーマやレトリックに乗るのでもよいから、言葉はなんとしてでも人に配列され、口から唾液飛沫とともに発音されたり、細かい線や曲線から成る文字によって書き付けられたりしようとする。そうして絶えざる感染を遂げていこうとするのだ。ウィリアム・バロウズが言葉を宇宙から来襲したウイルスだと断じたのは宜なるかなである。
ルイス・キャロルが「問題は言葉と俺とどっちが主人かってことだ」とハンプティ・ダンプティに言わせたのは、まさに至当と言わざるを得ない。もちろん、言葉が主人であるという結論はキャロルにおいて出ていたわけだが、言い切ってしまえばアリスの冒険はそこで終了、というより溶解してしまうので、明かさなかったのである。
なぜ、言葉が主人か? あまりに簡単なことだ。仮にハンプティ・ダンプティが「主人は俺だ」と言ってみたとしよう。「俺」はもちろん言葉であり、さらに言えば、言葉でない「俺」は存在しない。「主人は言葉だ」と言っても、もちろん、「言葉」は言葉である。




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