ぼくの振舞いが ながいこと みんなの嘲りの
的だったことなど あゝ、ぼくにはよくわかっているさ……
ペトラルカ「カンツォニエーレ」1
ペトラルカの「カンツォニエーレ」*は
ルネ・ド・セカティのフランス語訳しか持っていないので
これで読むほかはない
むずかしくはないのだが
どうせなら
イタリア語で
などと
思っているうちに読めなくなってしまうのも
もう いやだから
読むけれどもね
これで
14世紀のこの詩人を
いまでは
だれもがしちめんどくさそうと
避けがちだが
どうして
どうして
現代の小難しげ詩人たちより
はるかに簡単なもの言いで
なにより政治家だったからこその人生派で
いきいきと歌ってくれる
彼の人生などぜんぜん知らないで来てしまった
無知蒙昧のわが生など
そろそろ
犬に喰われろ!
わんわん!
父がアヴィニョンで働くことになったから
彼が8歳の時には一家でカルパントラスに移住し
12歳の時にはモンペリエで
法律の勉強を始めている
そんなこともろくに知らないで馬齢を重ねてきてしまって
ごめん、ペトラルカ!
文芸趣味人の風上にも置けぬ奴とは
まこと
俺様のこと
私が見るものを私はちゃんと見ている?
私がさわるものに私はしっかり触れている?
私は聴けているのか? あれらは嘘なのだろうか
私が言ったり読んだりするものは? で、真実って?
私は疲れすぎていて自分を支えられない
私には居場所もないし 自分がいるのかどうかも知れない
想像力を使えば使うほど
混乱してしまうばかりだし 間違い続けてしまう
こう詩に書いてペトラルカに送ったジョバンニ・ドンディ**に
きみのそういうつらい錯乱は私のものでもあるよ と返しつつ
ペトラルカはソネット244の中でさらに返す
きみに助言するが たましいを高みへと上げることだよ
天の領域まで上げて そうして心をつよく持つことだ
なにせ道は長いのだし 時間は足りないのだから
この最後の行 「なにせ道は長いのだし 時間は足りないのだから」
と 書き添えられなくなった現代の詩人っぽに 災いよあれ
あゝ この一行を手に入れ直すためになら
何度でも14世紀あたりまで 戻り直そうではないか
太陽のせいで砂漠になってしまう土地に置かれてもいい
あるいは 極寒が太陽を消してしまうところでも
太陽の戦車が軽くなり 熱さが緩むところでもいい
太陽が隠れたり また現われ直したりするところでもいい
しがない運命を与えられてもいい あるいは誇らしい運命でも
青い大空の下でも 霧にけぶる空の下でもいい
夜は私の上に閉じるがいい 夏でもいい 冬でもいい
果実の実る季節でもいい まだ青い実の季節でもいい
天空に持っていかれてもいい 地でもいい 地獄でもいい
天国でもいい 深い沼の中でもいい
自由な精神もよかろう 肉体に囚われた精神もよかろう
名もないままに終わろうが 栄光に輝く身になろうがかまわない
なぜなら私はどんなときも いつも同じため息をつきながら
この15年来このかたの 私自身にだけ似るように生きていくから
突然ソネット145をこんなふうに読むと
なに言ってんだ、こいつ? とも思わされるが
詩の背骨のたくましさは 即興で訳してみても伝わってくる
ペトラルカには有名な恋人ラウラがいたのだから
これはやはり ラウラへの恋の歌なのだろうが
はて どんな時のどんな場面での歌だったか
そんなこともろくに知らないで馬齢を重ねてきてしまって
ごめん、ペトラルカ!
文芸趣味人の風上にも置けぬ奴とは
まこと
俺様のこと
*Pétrarque : Canzoniere Rerum vulgarium fragmenta, traduction de l’italien et préface de René de Ceccatty, Gallimard, poésie, 2018.
**Giovanni Dondi
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