2020年8月26日水曜日

ようやく砂漠が……

 

1990年、同人誌「NOUVEAU FRISSON」創刊。

必要があって見直してみると、創刊の序文として書いたじぶんの文章が面白かった。

30年経ったのに、いま書いたかのように違和感のないじぶんがいる。

これほどの成長のなさ、変わりのなさが、爽やかなほどだ。

わたしはなにをしてきたのか?

なんにも。

まったく、なんにも。

そして、成長も、まったくしなかった。

 

この創刊号を手渡したのは、せいぜい20人ほどだったか……

 序文を読んでくれたのは、同人の川島克之や須藤恭博、その他、参加した宮下誠、田村利香ぐらいだっただろう。

 飯島耕一の詩を引用し、文の動力としている。このごろ読んでいない飯島耕一なので、楽しい。

       「きみが夢となり

現実となるほかはない
見えるものと見えないものに力づけられ
夜のなかで多く笑い
きみが風景となるよりない」

飯島耕一のみごとな詩句に、ひさしぶりに逢う。

 上田秋成に言及している30年前のじぶんにも、驚く。

 そう、上田秋成は『雨月物語』完成後、40年間創作活動を休止し、古典や古代史研究に没頭する。そして、文化4年、研究草稿を井戸に投棄し、窮死覚悟で『春雨物語』の完成に賭けた。

 

 その後ながく続くことになった雑誌の序文を、はじめて、もう少し開けた場所に持ち出す。

 もし読む人がいれば、30年を経ての、5人目か6人目の読者。



 

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ようやく砂漠が……

             ヌーヴォー・フリッソン創刊号のために

 

 

吉岡実の死を伝える記事に、ぼくは、「ああ、またと思いながら目を通したように記憶している。

ああ、また…

しかし、「ああ、また……」なんなのかといえば、別になんでもないのだ。自分自身で漏らすこの宙ぶらりんの嗟嘆が、いったい何をかがよわせようとするのか、ぼくは知らない。たぶん、最良の友になりうる人でありながらついに出会えなかった人に、心の中で、なにか絶対的なふうのある挨拶を送ろうとして、言葉選びにまどいながら「ああ、また」と言ってしまうのだ。ああ、またひとつ、友情可能性が失われた、とでもいうように。ああ、またさらに、ぼくのいる孤独沼の水位は上がったのだ、とでもいうように。
 日を置かず、飯島耕一が哀悼文を朝日新聞の夕刊に寄せたが、この文章がすばらしいものだった。人間であるほかない詩人が、人間であるほかない詩人に対して (人間であるということは、いうまでもなく詩人にとっては癒しがたい悔いであるが……)人生という無意味さのなかで、ゆいいつ爽やかな、喜ばしいものとして抱きうるひそやかな理解。そう呼んでよい、そう呼ぶほかない、そう呼ぶのでなければ、もはや、ひとの心の証など他には見出しようもない、といった文章だった。言葉使いは静かだし、長くもない、この十三×十七・五センチの哀悼文。ぼくは導かれた。これまで適当に読み流してきた飯島耕一という言葉の場へ。ぼくを導いてくれる言葉の少ないことを、最近悲しんでもいたのだった。

生きることは
ゴヤのファースト・ネームを
知りたいと思うことだ。
ゴヤのロス・カプリチョスや
「聾の家」を
見たいと思うことだ。
見ることを拒否する病から
一歩一歩癒えて行く、
この感覚だ。

 

「ゴヤのファースト・ネームは」という詩はこのようにぼくに向かって確認を仕掛けてきた。ぼくは仕掛けられて、驚くのだ。なぜなら、これはなるほど真実だから。なぜなら、今のぼくは、生きることをこのように定義しながらでなければ、ふたたび、生きることに耐え難くなっているから。これは真実だ。ぼくだけの、命懸けの。
 ぼくは追い詰められている。幾千万のぼくが。まだ可能性はあるかあと一年、ぼくはぼくに対して生きられるかどうすれば、すでに購入してある拳銃をこめかみに当てないで済むか?

きみがノアとなるより
ほかない
きみが夢となり
現実となるほかはない
見えるものと見えないものに力づけられ
夜のなかで多く笑い
きみが風景となるよりない
きみは誰なのか
日に一度そのことを考えよ
きみに何が見えるか
日に一度考えよ
そしてきみの内部で
海が今日どれほど膨らんだか
を計測せよ。
        (「見えるもの」)

 

これほど正確な神託を受けたことはない。これほど、ぼくが、ぼく自身の意味に近づいたことはない。広いところを感じ始める。社会などない。太陽がある。空がある。海がある。荒野がある。砂漠がある。砂漠……
 まだ、生きられるかもしれない。太陽が、空が、海が、荒野が、砂漠があれば。あるのだから。あるはずだから。ぼくが、ぼくの内で、あたうかぎり「社会」の領野を縮小するすべを身につければ。


きみの部屋に
ようやく砂漠がひろがり出している
きみは急いで帰るがいい
きみの夢の箱は
すでに砂漠だ。
そこに立ち戻ってくる
旅人の姿を見張るのがきみのつとめだ
地下道の群衆は
しみのように
消えて行った。
きみは眠りのなかに
毎夜
もう一つの思考を求めて
入りこんで行く……
ヴァレリイは石炭の山
磁石の山
コルシカの夢を
見たことがある。
     (「思考の過ちを求めて」)

 

出発だ、ふたたび。アルコール片手に、ペンをとり直すマルカム・ロウリー。シェイクスビア&カンパニー書店を出て、本のかたちを取るべき次の魔術へと歩みだすパリのジョイス。万葉集研究をすべて井戸に投げ捨てて、『春雨物語』へと羽化しゆく上田秋成。部屋にコルクを張りめぐらすことを決めたプルースト。
 出発だ、ふたたび。出発。出発。出発。出発。

 



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【初出】同人誌「NOUVEAU FRISSONヌーヴォー・フリッソン」 numéro 1 [199019]編集発行人駿河昌樹 編集委員駿河昌樹/川島克之/須藤恭博)





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