2021年1月5日火曜日

やぶさかではないものの

 

 

人は生きているといろんな罠に落ちて苦しむ。“書くこと”も罠だ。読者に受けた旧作を焼き直す作家たちは賞讃の声が忘れられない。だが作品の価値を最後に決めるのは作家自身だ。批評家や編集者や出版社や読者に左右されたら終わりだ。金や名声に捕らえられた作家どもはクソと一緒に川に流しちまえ。

ベント・ハーメル『酔いどれ詩人になる前に』(2005)

 

 



風呂に浸かりながら小さな雑誌を見ていて

ミヨシ・コーポレーションの

ゴーラン・三好・玲子の話を読んでいくうち

彼女の人生を艶やかにした店のひとつに

ゴールデン街のクミズ・バーが出てきたが

玲子にいろいろな作法を教えたそこのママのクミさんは

詩人で作家だった辻井喬こと西武百貨店社長堤清二の

妹の堤邦子の下について働いていた女性だということだった

 

堤邦子はフランスに移住したエッセイストで

パリ社交界の花といわれた“マダム・ツツミ”である

カジノ船《ソシエテ・リディア》を経営したが倒産し

西洋環境開発が損失を補填したという

とウィキペディアにはある

1997年に死去している

 

 

風呂の湯をちゃぽちゃぽさせながら

そういえば

辻井喬という名で小説や詩を書いている西武の社長さんがいたな

と思い出したものの

この人の生きている頃でさえ

私のかなり深い文芸好きの友人知人たちのうちで

辻井喬のものを読んだという人が誰もおらず

私にはいつまでも謎の詩人であり謎の作家だった

 

小説の新刊が出た時に何度かページをめくってみたことはあったが

まったく面白くないばかりか

読む価値のある実験がなされているとも見えず

文章を目で追いながらも

作家という以上

バルザックやスタンダールやフロベールや

プルーストやジョイスやフォークナーや

カフカやカミュやマルケスなどを凌駕していなければいけないはずだが

この人のどこが作家なのか

謎のままの作家だった

西武の社長さんであるから本にして貰えたのか

そう見なしてしまえば失礼かもしれないが

そう見えて仕方がなかった

とはいえいろいろな賞を貰ってもいるのだから

それほどひどい内容でもなかったはずだが

どうしても数ページ以上読み進む気になれなかったのは

文学読みとしての致命的な欠陥が

やはり私のほうにあったというべきだろうか

詩集もずいぶんいっぱい出しているらしいのだが

こと詩集に関しては

この人のものを目にしたことさえないし

ページを繰ったことはない

なにをどう書いてもいいのが詩だし

詩の場合は見開き2ページが一瞬でほぼ読み取れるから

実際に手に取れば

読むのに時間のかかる小説よりも

なんらかの反応を意識内に醸成しやすかったはずだが

とにかくも

この人の詩集に出会うことはできなかった

 

ともあれ辻井喬も

この40年ほどのあいだの村上春樹騒ぎによって

あわれあわれ

なにを書こうとも

あらかじめ

完全に忘れ去られることになってしまった作家のひとりである

いまでも

とりわけ流行らない汚い古本屋で

100円から500円ほどで

ハードカバーの棚に並んでいるのが散見されることもあるかもしれないし

文庫になっているものが

まだ数冊は新刊で見つかるかもしれない

しかし

詩歌の本をうっかり買ってしまうような人たちの話題には上らない

ましてや小説好きの人たちの意識には上らない

辻井喬

ああ、いたね、そういう人

それ以上の会話に

もう

絶対にならない残念な詩人であり作家に成り下がってしまっていて

諸行無常

あわれあわれ

わざわざこの人の本を入手して読もうという奇特な人は

もう

21世紀のこの地球には絶えてしまっているように感じられるが

私の間違いだろうか

これも

これほどまでに忘れさられるのならば

彼が小説や詩を書くのに費やした時間と労力を

経営事業にすべて注入すれば

孫正義以上の大経営者になれたかもしれなかったのにと

もう古くボロボロになっている池袋の西武の建物の実質を想像しながら

思われてならなかったりするのも

 

あれはいつのことだったか

寺山修司の演劇のひさしぶりの復活上演の際

幕間の休憩時間に

辻井喬や辻邦生や加藤周一たちが集まってしゃべっていたのを見た

ああ、すっかり偉くなった

私などとは文化階級の違うお仲間が群れ集って

元老院議員のように功成り名を遂げた文化人としての老年を謳歌しているな

と傍目に見て通り過ぎたが

読んでもあまり心に刻印を残してくれない雄弁流麗な辻邦生も

一部の大学のセンセが自分の出世栄達のために復活させようとして

褒め直しにかかっているのを除けば

もうすっかり忘却のかなたの作家となり

三島由起夫の『豊饒の海』を口を極めて罵倒した加藤周一の

方法論の一切通用しない現実の人間社会のどうしようもなさを

どうしても思考と行動の出発点に据えられなかった

あのどこまで行っても理想主義のノーテンキ啓蒙主義をベースにし

一見渋く苦みのあるかのような朝日新聞系知識人の代表者のような言説も

もう全く顧みられなくなった今となっては

あの幕間の彼らの姿そのものが一場の夢のように思い出され

ああ、彼らの誰も彼も

ついに漱石にも鴎外にも志賀直哉にも小林秀雄にもなれず

谷崎潤一郎にも三島由起夫にももう埋めようもない差をつけられて

歳若い村上春樹にも完全に敗北して

世界各国の国際空港の書店のどこにも英訳本が置かれていないとい

煉獄というか

むしろ文芸的地獄というか

そこに永遠に落とし込められて

歴史から消え去っていこうとしている

 

もちろん

プルーストが『失われた時を求めて』で書いたように

「彼は死んだ。しかし、永遠に死んでしまったのだろうか?」と

厖大な情報が怒濤のごとく生み出され続ける時代に入っての

あまりにはかない可能性とはいえ

ここで彼らの復活のそれの維持のために

つけ加えておくのは

やぶさかではないものの





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