夢を見ている際にも意識があるが
誰でもわかっているように
その意識は覚醒時の意識とは違っている
違ってはいるが同じ部分も多く
そのために覚醒時にも
夢の中で展開されていた意識内容を
かなりの歪みを伴いつつも
ある程度は取り出すことができる
便宜上夢の中での意識を呼ぶのに
夢意識と呼んでもいいかもしれない
そもそも夢の中で機動する自我は
覚醒時に機動している自我とは異なっている
私は夢の中で亡霊だったこともあるし
鼠や他の動物だったこともある
ふつうの人間とは違う動物や生物の自覚があって
しかし思考する時や行動する時には
覚醒時の意識が慣れている言語を用いる
そうした言語を夢の中の脳内で使用しているため
覚醒時にも夢の中での経験が
言語化されうるかたちで伝送できる
意識のことを考えようとすると
不変の意識状態がつねにあるものと考えがちで
それが覚醒時には覚醒時なりの動き方をし
夢を見ている時にはそれなりの動き方をすると
自然に考えようとしてしまう
しかし不変の意識状態がそもそも存在せず
覚醒時と夢見時との意識はすでに別種のものとして
最初から考え直す必要もあるかもしれない
覚醒時意識と夢意識といった概念で考察するならば
それだけで見え方は大きく変わりはじめる
言語を用いる時にいつも感じてきたのは
発話の際にも文字並べの際にも
意識は単なる覚醒時意識ではなくなることだ
特に文字を記していき続ける時
ふだんの意識では見えない/わからないものが
どんどんと視野に入ってくる経験はないだろうか
文字並べが魔法の類や麻薬使用の類なのだと
私はたびたび記してきたが
これは大げさな馬鹿げた表現でもなければ
妄想を拡大してフィクション化しようとするものでもない
覚醒時意識があったり夢意識があったりするように
発話時意識というものがあり
記述時意識や文字並べ時意識というものがある
本来実体を持たず空虚な器や指示でしかない
言葉という象徴を他者とのやりとりなしに用いる時に
単なる覚醒時のものとは異なる魔界が開かれる
象徴は記号とは全く異なっていて
ユングによるならば「意識には理解できない何か」*であり
「現在の段階ではいまだ理解できない何かの
可能なかぎり最良の表現」である
*マレイ・スタイン『ユング 心の地図』(入江良平訳、青土社、1999)p.117。
Murray Stein 《Jung’s Map of theSoul : An Introduction》, 1998
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