2021年5月9日日曜日

韻律あわせもしない行をふしだらに並べながら こんなふうにしているわけだから

 

  

ぼくは詩人ではないけれど

ランボーやアポリネールあたりで確立され

プレヴェールでさらに可能性を拡大された自由詩形式を

事の次第からというか

精神のなりゆきから

ずいぶん使わせてもらうことになったものだから

詩と呼ばれがちな書き物や

自己申告で詩だと主張したがりな書き物を

ずいぶんたくさん見続けてきている

 

その結果からいうと

日本の戦後の詩や

いまでは古新聞なみに黄色くなってしまって

結局似たり寄ったりでしかなかった現代詩なるものは

ずいぶん狭い詩観の実体化でしかなかったな

とやはり思う

 

とにかくセンチメンタルなんだ

日本の詩っていうのは

 

ちょっと皮肉を言ったり

わずかな発想の飛躍を書きつけたり

とにかく錯乱へと持って行こうとしたり

あるいはタニガワシュンタロウのように

感情や思いの宣伝コピーみたいな方向にまとめようとしたりと

まあ

そんなのは

どこの国でも詩のお得意の芸なんだが

身分をわきまえた小さな細工物を拵えようとするかぎりでは

それはそれで

面白くなくもない

そういうちっちゃな細工物を好んで眺める読者っていうのもつねにいて

それはそれで

需要と供給が成り立っている

 

中国詩やユゴーやホイットマンやミルトンやバイロンなどを

あまり読んでいなかった頃は

詩なんていうのは

ちっちゃな細工物であればいいんだろうな

と思っていたが

だんだんと古今東西の詩を知りひろげるにつれて

日本の戦後の詩界の偏向ぶりは

けっこう凄まじいものだ

とわかるようになってきた

そうして

はっきりと離れたわけだ

詩人たちからは

詩形式だけを適宜用いるようにして

ぼくなりにぼくの精神の役に立つようにしていこうと

 

それでも

今から15年前頃までは

ちょっと詩人たちの集まりに出かけていくと

非詩!

みたいなのを掲げる人たちが必ずいて

非詩!

にしか詩と呼びうるかもしれないなにかの顕われの機会はないと

かなり共有されていたものだけれど

いつのまにか

そういうアイロニカルな詩の探求者が消えて

いなくなっちゃったんだなあ


かわりに

センチメンタルな

あるいは自己体験みたいなものを書けば詩ですなどと

臆面もなく思い込んでいるような

ヘンな素朴派や自然派ばかりになっちゃったなあ

ひねくれた人ばかりを集めるハエ取り紙みたいな働きが

いわゆる現代詩にはあったけれど

なんか今現在の詩っていうのは

読書量も少なければ

海千山千の人生経験もなく

コルモピアで買ったシャツとかばかり着て

おずおずとチェーン店のプラスチック椅子で安コーヒー飲んでいるような

ウラナリみたいな人たちばかりの作物に

なっちゃった感じだな

 

なんて

言いながらぼくも

文章のように前から後へと読んでいけば

なんとなくそれなりにわかるような詩形式書き物を

韻律あわせもしない行をふしだらに並べながら

こんなふうにしているわけだから

人のことを批判はできないって

ことでは

あるんだけれどね






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