2021年7月10日土曜日

ベアトリーチェにダンテの目から出会ってもいなかったとして



森有正といっても、もう誰も知らない。

デカルトやパスカルに詳しいフランス哲学研究者で

パリに行ったまま向こうに留まって

日本には戻らなかった。

彼の著作は20年ほどの間日本の学生たちに多く読まれたが

多くは哲学的なエッセイというべきで

真に哲学的著作とは言えなかった。

それでも「経験」という曖昧な概念をめぐって

たびたび思索していたのは忘れがたい。

 

老いや死がつねに射程に入るようになってくると

森有正がこだわった「経験」という概念も

概念の思い出、思い出の概念として

ふたたび意識をよぎるようになってくる。

過ぎていったすべての時間、出会い、場所、出来事、

さらには、起こらなかったこと、思いの中でさえ

はっきりとはかたちをとらなかったもの等など

それらすべてを、抑圧したりねじ曲げたりしないままに

見渡せるようにするには、どれも「経験」であった

と言い纏めてみるのもいいのかもしれない、と思ったりする。

もちろん、「纏める」と猶も言ってしまう衝動に

過ちの深さや方法論的未熟を恥ずかしく感じながら。

 

私が30年をいっしょに生きたエレーヌ・グルナックは

パリの東洋語学校でロシア語を学び、レールモントフ研究を終えてから

日本語科に移籍し、森有正にも、じかに日本語を習った。

服も髪の毛もいつも汚い先生で肩はフケだらけの時もあった。

雨の時など、傘を持って教室に入ってきて、

壁に立てかけようとするのだが、傘は倒れる。

倒れた傘をまた壁に立てかけようとするのだが、また倒れる。

何度もそれをくり返す人だった、と言っていた。

傘を壁に立てかけようとくり返しながら、反復しながら、

もちろん、傘の位置にも行為にもその都度差異が生まれただろう。

同じ時期にヴァンセンヌ校で教えていたドゥルーズなら

森有正のこの傘立てかけ動作も、『差異と反復』に加えたかもしれない。

少なくとも優にシネマ的な森有正のこの動作を、

ローレルとハ―ディー論に安易に還元してしまったりせずに、

意外にもムジールの『特性の無い男』論や成瀬巳喜男論などに

連結し得たかもしれないし、少なくとも、クロソウスキーや

ロベール・ブレッソンには

容易に連結させることができただろうと思える。

 

こんな言葉ならべをしながら、

私はまた、そろそろ生まれようとする。

諸君、ダンテの『新生』を、本当にじっくりと読み終えたことがあるか?

もし読み終えていなかったとして、

ベアトリーチェにダンテの目から出会ってもいなかったとして、

そのまま老境に入っていったり、ふいの死を迎えたりして、

いいのか?

ダンテの『新生』を読み終える以上に価値のある「経験」が

2021年以降の地球上にあるなどと

信じてでもいるのか?





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