2021年7月1日木曜日

私はひとり馬にまたがって物寂しい地方を過ぎていったが……

 

 

自腹を切らねば人生は学べない。

第二代ロチェスター伯爵ジョン・ウィルモット

 

 

 

無思慮に

mRNAワクチンを打った人たちの

症状報告を見ていると

蕁麻疹や皮膚の異常などのアレルギー反応も多い

 

彼らの症状の患部写真を見ていると

闘病に明け暮れた

わたしの少年時代の

あの“失われた”5年間が

思い出される

 

地元の主治医には5年間以上

毎週かかさず通ったが

セカンドオピニオンを求めて

東京中のたくさんの医者も訪ねた

主な大学病院で行かなかったところはない

高度成長期以降に子供に多く接種されるようになった

ワクチンのどれかによる副作用が原因ではないか

と推定した医師たちも数人いた

しかし確定できる手段がないので

推定に留まり続けた

ともかくも今後

きみは絶対にワクチンを打ってはいけない

と医師たちには言われた

 

10歳の時

まず

毎日の夕方頃からの

全身に広がる凄まじい蕁麻疹が

始まった

ちょっとポツポツできるというようなものではなく

小さくても3,4㎝以上の膨らみで

それが

手の甲から腕、肩、首、胸、背、脚などまでに浮き出る

顔も例外ではなく

特に皮膚の敏感な唇や瞼への発生はひどく

ふつう1㎝前後の幅の唇が

2㎝から3㎝に腫れ上がる

上唇も下唇もそうなり

瞼も同じように腫れ上がるので

それらの全部の箇所に腫れが出ると

目もうまく開けないし

閉じられないし

口で物を食べるのもうまくいかなくなる

蕁麻疹なので痒く

巨大なのが同時に到るところに出るので猛烈に痒い

あまりに腫れ過ぎもするので箇所によっては痛さも伴う

 

ただ

常に瞼や唇の全部に腫れが出るわけではなく

場所は日によって変化し

腫れぐあいもまちまちだった

こうした巨大蕁麻疹の発生は少なくとも3年間は連日続き

その後は時々発生するというふうに

徐々に減っては行った

 

こうした巨大蕁麻疹と併行して

次に始まったのは

これも全身に出現したおできで

痛みを伴って硬く凝って行っては

やがて膿を出すようになる

緑の膿がブチッと出て

中から芯が出るとようやく収まっていくが

しばらくは穴が開いたままになったり

凹んだままになったりする

おできはあまり顔にはできなかったが

胴体や背には到るところに出来た

でき物にはツワブキが効くというので

祖母の家の庭から採ってきたツワブキの葉を揉んで

母がガーゼの下につけて絆創膏で貼っていくので

体全体が絆創膏で覆われ続けた

 

おできはそれでも数ヶ月で収った

終わらなかったのは巨大蕁麻疹と関節の腫れ

若干肥り始めたかとも見える全身の膨れだった

その頃には慢性腎炎と強度のアレルギーという診断が出ており

毎日三回の数種類の経口薬(胃薬も含む)

毎週の太い血管注射

毎月の血液検査

子供には苦しい生活制限として

塩分制限

肉食制限

運動禁止

早い就寝

あらゆる点で無理をしない

などのことが課せられた

運動禁止とはいっても

遊んでいると

適当に走ったり

あばれたりしてしまうが

それがある度合いを超えると

関節の腫れやダルさとして出てくる

 

5年間最も苦しめられたのは

巨大蕁麻疹が

湿気や暑さや寒さなどの天候不順からも

さらには心理的な原因からも発生したことだった

たとえば学校で来週いくつか試験があると聞かされる

難しくなくても復習が面倒だなと思う

そう「思う」ともうダメで

たちまち巨大蕁麻疹が身体を覆いはじめる

ちょっとでも「面倒だ」と思ったり

「辛い」と思ったり「嫌だ」と思ったり

不安に感じたりすると

たちまち目や口が膨れ始めて数時間は腫れが引かなくなる

とても人前に出られるような顔ではなくなるので

家にいる時ならば閉じ籠もりたくなる

学校や用事で戸外にいる時には隠れようもなくなり

野球帽を深く下ろして目を隠したり

唇を口の中に巻き込んで紛らわそうとしたり

ハンカチで口を押さえて隠したりする

とにかく34時間ほどは退き始めることはないので

その間は必死に人目を避けようとする

人目を避けるのが5年間の少年時代の最大の課題だった

 

とにかく

自分がごくふつうに感じる感情を

自分の身体に伝えてはいけないということがわかり

なにを感じても

そこで感情を遮断したり断ち切る修練をするようになった

自分の身体が自分には最大の異物であり

自分の感情や思念が最大の敵であり

この連中は

気まぐれでわがままな不快な伴侶のように

突然膨れはじめ猛烈な痒みを引き起こして

わたし自身の顔を異形に変えてしまう悪魔なので

小学校半ばから中学校を終えるまでのわたしは

他の同級生たちとは全く違う内面操作を毎瞬しながら生き

表向きは人間の身体を着ているようでも

ほとんど誰とも共振できない異人となって行った

人でさえなくなっていったかもしれない

 

mRNAワクチンを打った人たちの

蕁麻疹や皮膚のアレルギー反応の写真を見ていると

少年時代のわたしの日常だった症状に似ているものがあって

懐かしくさえなる

そうした反応は高校生時代や大学時代にも

たまにぶり返すこともあって

いつまでもわたしを手放そうとしない親しい悪魔の存在を

そのたび

思い出させられたものだが

それでも年齢を重ねていくごとに

ぶり返しの回数は激減し

今では

かつてあれほど自分が長く重病を患っていたのを

忘れていることさえある

時間の経過と忘却というテーマが

いよいよわたしにとって大きなものとなってきているのには

こうした理由もある

長い期間重い病気であったわたしと

まったく病気でなくなっているわたしの間に

わたしはどう連関を見出したらいいのか

わからなくなる時がある

わたしという生や意識の継続の中に断絶がはっきりと存在し

どういう運命の悪戯がどう行われたものかと

自分についての統一したイメージを

どうしても作れないままでいる

 

わたしのあれほどの病気が

ワクチンのどれかによる副作用が原因ではないか

と推定した医師たちは

子供だったわたしに語ったが

ワクチンがもてはやされ出した時代にあって

医学の中心にいた彼らの

ちょっと低められた声が忘れがたい

はっきりとはわからないし

調べる手段がないが

ともかくも今後

きみの場合は

絶対にワクチンを打ってはいけない

とわたしに告げた

あれらの医者たちの声が

忘れがたい

 

大学病院で

あの医者たちの診察室や研究室に行く時に

たびたび

病院内の裏の通路を通って向かったが

途中には

胎児のホルマリン漬け標本がえんえんと並んでいる廊下もあった

自分のように苦しんでいる子供を将来は助けたいと思い

その頃は医者になる夢を持っていたので

それらの標本をしげしげと見

この子たちと自分の間にあるわずかの運命の違いを感じ取ろうとしながら

わたしは医者たちの部屋へと歩いて行った

 

医者になる道を棄てたのは

いつの事だっただろう

中学校の2年生の時にアラン・ポーに出会ってからなのは

確かなことのはずだ

 

「暗雲が重苦しく垂れ込めた、暗く物憂い、寂寞とした秋の日のことであった。私はひとり馬にまたがって、物寂しい地方を過ぎていったが、黄昏がせまる頃になって、ようやく、憂鬱なアッシャー家の家が見えるところまで来たのだった。なぜかわからぬながら、はじめてあの建物を見た時、耐えがたい憂愁の思いに心は浸されたのだった……」

 

ポーのこの語りは

わたしを一気に病から引きずり出して

まったく違う世界に持って行った

翻訳本の解説には

ポーの最大の理解者として

ボードレールとかいうフランス人の顔も載っていて

そうか

それじゃあ

ポーについてのこの人の意見も読んでみるか

別の道が

急に

開けていくところだった





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